牧庵鞭牛道供養碑と牧庵鞭牛新道供養碑
提供:ミヤペディア
江戸時代、道路開削に身を捧げた牧庵鞭牛は、宝永7年(1710年)、和井内に生まれ、21歳で出家し、37歳で林宗寺(釜石市)の六世住職になった。
このころは凶作が多かった上、年貢などの税や、伝馬役(穀物や海産物、役人を人馬で運ぶ役目)の割り当てがあり、人々の負担となっていた。閉伊街道が狭くて危険な道だったのも一因で、その点では行商人や牛方(牛で荷物を運ぶ仕事)も同じだった。
出家の前に牛方をした鞭牛は、街道の整備が人々の救済につながると考えたのだろう。宝暦5年(1755年)、林宗寺の住職を辞し、南川目の岩屋を足がかりに、街道の整備に着手した。
このとき、各村から多くの人が出て鞭牛のもとで働いている。難所の開削に鞭牛を招いた村もあった。
難所を開削すると、鞭牛は「道供養碑」を建てた。これらの碑の日付から、鞭牛の閉伊街道開削は宝暦8年(1758年)を中心に、主に冬から春先に行われたことがわかる。
茂市の「新道供養碑」や蟇目の「道供養碑」は川沿いの大きなカーブや岩壁際にあり、そこが難所であったこと、その仕事に知識と技術が不可欠だったことを伝えている。
出典:広報みやこ「新ふるさと博物館」
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