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熊谷巌

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  • 政友会代議士

原敬の側近であり山田線開通の功労者

 宮古山常安寺の参道の消防殉職者供養碑の隣に一風変わった方形の石碑がある。碑の中央には政府會総務代議士・熊谷巌先生碑とあり、右側にこの石碑の由来が刻まれている。それによるとこの石碑には代議士・熊谷巌の胸像が乗っていたが太平洋戦争中の昭和19年(1944)6月に金属供出として召集され戦後台座のみが残され荒廃したままになっていたのを憂い、昭和25年(1950)小笠原孝三、藤島弥助、坂下吉右エ門らが発起人となり台座を顕彰碑に改造したと記述がある。

 胸像となっていた熊谷巌代議士は宮古出身の大正・昭和初期の政治家だ。熊谷巌は明治16年(1883)9月に生まれ、旧制盛岡中学から五高、東京帝大へ進学、警視庁保安部長などをへて弁護士となり、大正13年(1924)5月の第15回総選挙で政友会から岩手四区に立候補し初当選して政治家に転身、昭和3年(1928)、同5年(1930)、同7年(1932)の衆院選でも連続当選している。その間、政友会の総務も歴任し原敬の後継者として将来を嘱望されていた。

 熊谷巌が政友会から出馬した第17回総選挙岩手一区には盛岡生まれで三重県知事を歴任した田子一民(政友・現)、熊谷巌(政友・現)、大矢馬太郎(政友・元)に元軍人で退役してからは軍縮非戦論者だった高橋寿太郎が新人として立候補した(高橋寿太郎は宮古人物列伝パート6・2007年2月号・NO/340参照)。この選挙は結果的に当選が固い現職の田子に次いでの宮古出身の熊谷と高橋によるライバル党同志の現職・新人一騎打ちとなった。当時の選挙は現在と違って女性に選挙権がない特殊な選挙だが宮古の町は選挙一色に染まったという。結果は田子のトップ当選に次いで宮古町の熊谷、高橋とも当選している。

 大正から昭和にかけて交通は海路から鉄路へシフトする時代だった。宮古では先代菊池長右衛門ら有志が盛山線(現・山田線)開通の足掛かりとして乗合の盛宮自動車を運行した。原敬、熊谷巌らは内陸と沿岸を鉄路で結ぶ山田線開通へ向けて尽力した。しかし熊谷は昭和8年(1933)一県一銀行政策を推進する大蔵省(現・財務省)の金融再編成に伴う疑獄事件に連座。保釈後の同年11月2日、東京芝白金の自邸で縊死している。山田線開通における熊谷の功績は宮古駅前の旧国鉄山田線建設記念碑に刻まれている。

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