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2009/10 歴代宮古市長の石碑巡禮

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 どこの地方都市もそうであるように宮古市も戦前から政争の町として多くの選挙で様々な候補者が独自の政治理念で闘ってきた。その原点となったのが明治5年(1930)の第2回総選挙旧岩手一区(定員3)の選挙戦だった。この選挙では政友会・熊谷巌(宮古出身)らが議席独占を狙ったのに対し、予備役海軍少将で軍縮派の高橋寿太郎(宮古出身)が民政党から立候補、壮絶な選挙戦を繰り広げ宮古・下閉伊郡を二分する激戦となり、熊谷、高橋の両氏が当選する結果を残した。この時代、現在のように男女平等ではなかったため有権者は男だけという特殊な構図ではあるが、有権者は選挙を身近なものとして実感し選挙が経済を動かす歯車でもあることを知り、以後あらゆる選挙に熱狂してきた。しかし、その流れは政治と利益が混沌とした泥試合の形相を呈することもあり候補者を支持する側のモラルも問われた。80年代の市長選挙では「宮古病院は2つも出来るのか?曲がった宮古大橋?」などの新聞や怪文書が飛び交い熾烈な中傷合戦となった記憶も新しい。しかしそんな数々の因縁を引き継いだ選挙の時代は昭和の記憶とともに遠く懐かしい事柄として忘去されようとしている。

 21世紀となり宮古市の成長は過度期を迎え新たな合併を経て、発展や飛躍は今までとは別な方向へシフトしてゆくわけだが、今月は先月の鈴木善幸書の石碑に続いて昭和から平成の宮古市長たちの名が残された石碑や定礎を巡ってみた。

 まず最初の石碑は松山の宮古下水道処理センター中庭にあるもので自然石に黒の御影石をはめ込んだものだ。碑には千田真一氏の自筆と見える筆跡で「鮭の川・よみがえる水・永遠に」とあり、左に昭和六十三年十月吉日、宮古市長千田真一の名がある。千田真一氏は代議士・鈴木善幸の秘書から岩手県議会議員に転身したのち、昭和56年(1981)菊池良三宮古市長急死のため急遽行われた宮古市長選挙に立候補、当選して平成元年まで二期をつとめた。千田氏が市長の時代は宮古市サーモンランド宣言、中心商店街の命運を担った宮古病院移転、大規模小売店進出の規制などニュースに事欠かなかった。中でも昭和62年に行ったサーモンランド宣言は漁獲だけでなくソフト面でも宮古市が鮭のまちであることを全国にアピールするものでシンボルマーク制定などもわれた。

 次の石碑は昭和37年(1962)から菊池良三氏と市長選挙を戦い昭和45年(1970)、平成元年に宮古市長となった元日本社会党衆議院議員・中居英太郎氏の名が残る水道事業所敷地内にある石碑だ。碑の中心には水神碑とあり、左に宮古市長中居英太郎の名がある。石碑は宮古市政施行50周年と宮古市水道創設40周年を記念して建立されたもので、台座裏面に二枚の御影石がはめ込まれ一枚目には当時の建立実行委員会であった市内の水道工事会社12社の名と平成三年十一月吉日の年月日、二枚目には奉賛者名として市内の建設会社60社の連名がある。中居氏は岩手県議会議員を経て、昭和28年(1953)の衆議院議員選挙に旧岩手一区から社会党公認で初当選。二期務めた後、昭和45年(1970)から昭和49年(1974)、平成元年(1989)から平成5年(1993)まで通算2期、地元の宮古市長を務めている。平成19年(2007)1月2日脳梗塞のため埼玉県越谷市の病院で死去、89歳であった。

 次の石碑は平成9年から今年の春まで宮古市の市長としては3期12年に及ぶ異例な任期となり今年引退した熊坂義裕氏の名が残された街中の石碑だ。この石碑は中央通りの公衆トイレ脇にあるもので、平成12年に山口川の浄化事業を行った際、全国の甦る水百選の事例として取り上げられ、当時の建設大臣だった扇千景大臣書の金属製プレートを石碑にはめ込み、台座に2001年3月吉日、宮古市長熊坂義裕の名が入った御影石プレートをはめ込んだものだ。現在山口川は末広町裏から中央通りで道路の下を流れる築地で閉伊川と合流する。山口小学校前から閉伊川へ流れる川は洪水対策のため大正時代に掘られた山口川の放水路で正式な山口川ではない。

 最後に紹介するのは石碑ではなく定礎だ。宮古市の公共建築物には歴代市長の名があり写真は宮古市総合体育館のものだ。定礎には平成9年3月吉日、宮古市長、菊池長右エ門の名がある。菊池長右エ門氏は平成5年(1993)岩手県議会議員から転身、菊長、中居、熊坂が立候補した宮古市長選を勝ち抜き当選、平成9年(1997)まで市長として一期をつとめた。近年は昨今の総選挙に岩手二区から民主党として比例代表で出馬、当選し衆議院議員となった。宮古からの衆議院議員誕生は昭和28年(1953)の中居英太郎氏以来の快挙でもある。

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