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新里年表

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藩政期新里年表 1700年以降

宿場町新里・盛岡ー宮古を結ぶ五十集の道・宮古街道
宮古街道は約100キロの道のり。盛岡城下と宮古を2泊3日で結ぶ脇街道で経済と物流の重要ルートであり、新里の宿場町も活気を呈していた。三陸沿岸の海産物「五十集(いさば)」や内陸部の米・雑穀・生活物資、北上産地の鉄、山里の産物を運ぶ塩の道・鉄の道としても知られた。異国船の来航が懸念された江戸時代後期には、海防のための軍事ルートとしても重視された。 しかし閉伊川の渓谷に沿って曲がりくねる道筋には難所が多く、沿道の村々の公役負担である夫伝馬は難儀を極めた。これは藩の御用物資を運搬するために村々に課した公役負担で農民には苛酷な役務であった。この街道を安全に往来できることを願い、改修工事に尽力した牧庵鞭牛和尚は宝暦5年(1755)から亡くなる前年の天明元年(1781)まで、その半生を道路改修に捧げたことは有名だ。また、文政6年(1823)には五戸町の御給人・藤田武兵衛が自費で道普請を行いたいと盛岡藩に願い出た。これには宮古町の商人たちも300貫文の献金を行ったという。鞭牛とともに忘れてはならない人物である。
宮古街道の歴史は改修と自然災害との闘いでもあった。享保3年(1718)の閉伊川・刈屋川大洪水の被害は甚大で、街道は十数年もの間、不通となった。そのため茂市村から田代村にかけて尾根づたいに進む山岳道路が緊急整備されたが、農民の夫伝馬役はいっそう苛酷になった。幕末の万延元年(1860)6月盛岡城下から山岸・浅岸・元信・銭掛・笹ノ平・カヤノ・釜津田・大川・浅内・上有芸・田代・山口を経て宮古に至る、まったく新しい宮古街道が整備された。牛方の道を彷彿させる山岳ルートで、海防に関わる緊急事態に備えた新道整備であったのだろうか。


1701
元禄
14
大飢饉、領内餓死者2万6千人
1702
15
大飢饉、領内餓死者5万2千人、茂市監物勝恒死去
1703
16
大飢饉、領内餓死者1万6千人
1704
宝永
1
干ばつ、刈屋村内藤治五右衛門与市死去、刈屋村火災
1705
2
干ばつ、5分作、刈屋村日吉神社創建
1706
宝永
3
腹帯村が百姓御伝馬役軽減嘆願書を提出
1707
4
腹帯村袰岩武十郎が藩に出仕
1708
5
大雪、大風、刈屋村火災
1709
6
茂市村火災、和井内村火災
1710
7
腹帯村の百姓御伝馬軽減嘆願書決済
1712
正徳
2
刈屋村白山神社の山桑家先祖刈屋清十郎鰐口を奉納
1715
5
刈屋村小山田与右衛門死去
1716
享保
1
石高=茂市(69)刈屋(76)腹帯(32)蟇目(65)和井内(119)、馬数=茂市(93)刈屋(166)腹帯(28)蟇目(133)和井内(172)
1717
2
刈屋村火災
1718
3
閉伊川大洪水(白髭の洪水)、猿老舞御用通路指定
1719
4
和井内村火災
1720
5
大雨洪水、茂市源六郎勝成「茂市刈屋一揆由来」執筆
1721
6
大雪、茂市村が御伝馬役困難の訴状を提出
1723
8
刈屋村・茂市村が御伝馬役軽減の嘆願書を提出
1724
9
雷雨洪水、不作、腹帯村舘野与惣兵衛が藩に出仕
1725
10
干ばつ、稗凶作
1726
11
年暖冬
1727
12
大風、大雪
1728
13
大雨洪水 
1729
14
茂市源六郎勝成が一揆加担の疑いにより捕縛
1730
15
茂市源六郎勝成が切腹
1732
17
不作、腹帯村小高帳作成
1733
18
干ばつ、虫害、不作、茂市家遺児元服
1734
19
茂市家遺児元服し佐々木に改名(敬礼家先祖)
1736
元文
1
刈屋村小山田与茂吉死去
1737
2
腹帯村蕨沢金山発見
1741
寛保
1
閉伊川大洪水、不作、茂市村火災
1743
3
大洪水延享3年 1746 茂市村佐々木源兵衛勝便3石加増
1748
寛延
1
冷害、凶作
1750
3
蟇目村飛沢織江が藩に出仕
1751
宝暦
1
大雪
1753
3
飢饉、餓死者9千9百人、茂市村火災
1754
4
干ばつ、水争い
1755
5
大飢饉、領内餓死者4万9千6百人(宮古通1833人)
1756
6
凶作
1757
7
凶作
1758
8
牧庵鞭牛が閉伊街道の難所工事に着手
1760
10
牧庵鞭牛が和井内安庭の薬水を発見
1761
11
茂市村佐々木源兵衛勝便が日月神社に鰐口を奉納
1763
宝暦
13
大風雨洪水、刈屋村佐々木勘五郎が根城八幡に鰐口奉納
1765
明和
2
不作(4年まで続く)
1768
5
蟇目村飛沢市右衛門が藩に出仕
1769
6
宮古通に悪病流行
1770
7
不作、腹帯村惣百姓が御伝馬役軽減の嘆願を強訴
1771
8
凶作
1772
安永
1
凶作、大地震
1773
2
凶作
1774
3
三陸大津波
1776
5
大雨洪水、冷害、凶作(9年まで続く)
1781
天明
1
凶作、蟇目村火災、刈屋村神の下鉱泉を発見
1782
2
大飢饉、領内餓死者4万人
1783
3
飢饉、悪疫流行
1784
4
大飢饉、領内餓死者4万人、茂市村袰地覚左衛門及び野崎勝右衛門が藩に出仕
1785
5
茂市村佐々木源兵衛門勝便死去
1786
6
大風雨洪水、冷害、凶作
1787
7
洪水、飢饉、死者2千5百人
1788
8
凶作、百姓挑散が頻発
1789
寛政
1
凶作
1790
2
刈屋村小山田直右衛門義昭が加茂神社を創建
1792
4
刈屋村大火、宮古通に延焼
1793
5
凶作、津波
1795
7
凶作、刈屋村など17ヶ村百姓一揆
1796
8
蟇目村飛沢内右衛門が一揆の引責により蟄居
1797
9
刈屋村小山田直右衛門が一揆の引責により蟄居
1798
10
藩主南部利敬、宮古地方を巡視する
1802
享和
2
閉伊郡内村数139村、人口68000人。この頃刈屋村159戸、和井内村137戸、蟇目村110戸、茂市村64戸、腹帯村21戸、計491戸
1808
文化
5
農民救済用として各村に養蚕が推奨された
1810
7
刈屋村桑御山守、刈屋清十郎に杉植立証文が交付される
1811
8
御山守、刈屋運右衛門勝政、造林事業功労により褒賞を受ける
1817
14
この頃の肝入、蟇目村・治八、茂市村・門之丞、腹帯村・嘉右衛門、刈屋村・与三郎
1822
文政
5
この頃から刈屋村の養蚕が盛んになる
1823
6
藤田武兵衛、盛岡・宮古間の新道の一部を開く
1825
8
閉伊川洪水、凶作、飢饉
1829
12
刈屋村高昌院、本堂再建工事が完成
1831
天保
2
閉伊郡に琉球風邪が流行する
1833
4
天保の大飢饉、天保10年まで続く
1836
7
刈屋村肝入・久五郎、キリシタン宗門改め書き上げを完成(明治の戸籍編纂の参考書となる)
1845
弘化
2
この頃の肝入、茂市村・嘉十郎、蟇目村・助右衛門、刈屋村・彦右衛門、腹帯村・与右衛門
1847
弘化
4
三閉伊一揆
1849
嘉永
2
洪水、山崩れ、飢饉
1853
嘉永
6
嘉永の三閉伊一揆
1857
安政
4
本村寺子屋、腹帯村・豊川専太郎、茂市村・佐々木弥太郎、蟇目村・田鎖小八郎。冬期農閑期に読書算を教える
1864
元治
1
嘉永の三閉伊一揆の指導者、三浦命助が獄死
1866
慶応
2
刈屋村高昌院に鐘楼門が完成する
1868
明治
1
宮古代官所廃止
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