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幻住庵祇川反古塚

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2014年10月22日 (水) 17:15時点における最新版

宮古市指定文化財・幻住庵祇川(ぎせん)反古塚

長根寺山門の上り坂に地蔵の祠と石碑群がありその中に「幻住庵祇川反古塚」がある。反古(故)塚とは書き損じた書などに敬意をはらい中国の古事に習って供養する塚で広く漢学が学問として認められた江戸中期頃から文人や俳人などの手により盛んに建立された。祇川という人物は青灯下(しょうとうか)と称し滋賀県蒲生(がもう)郡日野出身の江戸後期の俳人だ。芭蕉の門人だった許六(きょりく)系の俳人・治天(ちてん?)の門下とされ、明和8年 (1771)長根寺二十二世祐義法師の招きで宮古に訪れ長根寺に約3年間滞在した。この間、祐義法師を中心に地方の俳諧同好の士と交わり俳諧文学の指導にあたった。
石碑は中央に幻住庵祇川反古塚とあり、次の句が刻まれている。

  • 山ひとつ三奈 名残越し花の時、安永六丁酉 江州義仲寺 建立

句は「山ひとつ三奈(やまひとつみな)名残越し花の時」と読み、年号は安永6(1777)丁酉(ひのととり)で江州義仲寺(ぎちゅうじ)建立と読める。義仲寺は祇川の故郷でもある滋賀県の大津市の松尾芭蕉の墓がある寺だ。この反古塚も晩年の芭蕉が使っていた号「幻住庵」と刻まれていることから、碑は元禄7年(1694)に没した俳聖・松尾芭蕉に敬意を表し建立されたものと考えられる。
祇川が京に帰ることになった安永3年(1774)の春、長根寺の祐義や門人たちと別れる日が来て、門人たちは祐義を中心に祇川との別れの句座を設けたという。長根寺は折しも梅の花が盛りで古木あり、若木あり、白梅紅梅がほのかな薫りを山内いっぱいに漂わせていた。この別れの句座も芭蕉が死を迎える際に門人たちを集めて開いた句座に習ったものであり、祇川は門人の句を一読したのち、宮古を離れる感慨をこめて石碑にある句を口ずさんだという。祇川が長根寺に滞在していた頃、旅を手段として句を残した芭蕉が没して約80年が経っていた。その影響は以後の俳人たちに大きく受け継がれ、祇川の陸奥の辺境地宮古への旅も芭蕉の思想を辿る旅だったかも知れない。

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