宮古ライブ音楽史
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戦後の宮古におけるポピュラー音楽の夜明け
戦後の昭和23年に宮古にきたという須藤藤男さん(84)は北海道出身でそれまで樺太にいた。須藤さんは戦後日本の領土から切り離された樺太でアコーディオン弾きとして数年間邦人の楽団に席を置いていた。宮古へは親戚がいたので引揚者として土を踏み、現在の駅前(中屋商店)にあったマーケットでDPE屋として商売をはじめた。数年後アコーディオン弾きである須藤さんを含めそこに仲間が集まりバンド活動がはじまった。
当時は戦前の無声映画の楽士もおり、復興後間もない時代だったが音楽仲間は結構いたという。活動はキャバレーやダンスホールなどでの生演奏から、宮古市近郊の市町村の祭や盆踊りなどに呼ばれての興業が中心だった。バンドの編成はアコーディオン、バイオリン、ウッドベース、ドラムス、クラリネットなどでジャンルは「軽音楽」と呼ばれる当時の流行歌や洋楽のスタンダード、またはクラシックなどであったという。
宮古の歌謡シーンの歩み
歌謡曲やフォークソングがブームだった昭和40年代から50年代前半。宮古にも多くの歌手が訪れコンサートを行っている。大物歌手の美空ひばりをはじめ当時御三家と呼ばれた歌手からアイドル、そして有名フォークシンガーとステージは目白押しだ。高度成長と相まって宮古の音楽シーンも活況を呈している。宮古の歌謡シーンの歩みについては、1996年の本誌5月号で年表を作成したが、今回、その後のステージを加えてさらなる歴史をまとめてみた。ただし、今回の取材では平成8年以降のステージについて一部詳細な資料がなく、残る資料のみでの掲載となった。これは宮古市民会館のこれまでの詳細な資料が数年前の会館改修工事によって処分されていることから、全て掲載されているものでないことを了承願いたい。
公演ステージは宮古市民文化会館が完成するまで、ほとんどが宮古小学校体育館で行われている。当時、多くの人を収容する施設としてはこの体育館しかなかった。団塊世代の人たちにとって、宮古のコンサートホールと言えばこの宮小体育館なのである。当時の音楽シーンの主催者はコンサートが始まった昭和30年代から40年代は労音(後に宮古音楽協会)、日専連、宮興企画が主流で、それらは販売促進、興行、会員向けと形態は様々だが、当時のニーズにあったシンガーを招き多くの人を魅了している。特徴的なことは日専連が演歌や流行歌の歌謡曲系、労音がフォークソング系、宮興企画がアイドルをはじめとするヒットシンガー系と、それぞれの組織の特徴を生かしたスタイルで多くの音楽シーンを提供してきた。
50年代以降になるとテレビ局、新聞社や中央の音楽事務所、企画会社、あるいはジャズ愛好者、市内の楽器店、民間企業などが手掛けている。市民文化会館が出来てからは会館の自主事業という形で行われていて、出演者のジャンルが幅広くなっているのも特徴だ。しかし、近年のステージを見ると、歌謡、ポプッス系は年に数回という寂しいものになった。隔世の感、ここにありだが、こうした現象が今、団塊世代の青春回帰につながっているのかも知れない。
宮古初の生バンド演奏を行った ニューテネシー
旧田町(大通り)にあったダンスホール「ニューテネシー」は昭和42年にオープンした。100人程収容できる広さで、宮古で初めての生バンド演奏を入れた店である。ベンチャーズなどグループサウンズ、エレキブームの時代で、当時は足立ベニヤのグループ「ファイブフェニックス」や「ドリームアイランダース」というバンドを専属に、市内、釜石、盛岡などからもバンドが出演し、店は生演奏の度大勢の人で賑わったという。入場料はコーラ付で100円から250円。当時は防音設備が完備していなかったことから苦情等が殺到、いろいろ工夫をしたが大きな効果がなく、その影響で3年ほどで店を閉めることとなった。
宮古のエレキブームとGSサウンド期
1960年代前半の頃、ベンチャーズが2度の日本公演を行った。その2度目の公演で演奏した「パイプライン」という曲は「サーフロック」というジャンルの曲だが、その音はまさに日本列島にエレキを走らせた衝撃的サウンドであった。このベンチャーズがもたらしたまったく新しいエレキサウンドというムーブメントは当時の少年たちにとって、それまでの音楽を払拭する文明開化でもあり、後のGSブームを作る引き金でもあった。
1950年代から行われていた日劇ウェスタンカーニバルだが60年代に入るとGSと呼ばれるジャンルのバンドによるステージが中心となり、熱狂的なファンが押し寄せた。興行主はこのドル箱ステージを地方都市で出前興業した時期があった。そんな出前興業の中に1967年のウェスタンカーニバル盛岡公演があった。出演はザ・タイガース他で、この時、当時宮古を中心にGSサウンドで活動していた「ウォーカーズ」と盛岡の「サニーズ」が前座としてステージを踏んだ。ウォーカーズは5人編成のバンドで、当時おばら楽器から前借りで楽器や機材を揃え、それらを平積みトラックに満載し未舗装の106号を盛岡へ向かったのである。
水曜日はセッションデー。ライブハウス・ワークの頃
生バンドが入り演奏を聴きながら踊れるという店がムーブメントだった時代がある。そんな70年代後半に、スターライトに並んで若者に人気だったのが大通にあった「ワーク」という店であった。そこは今は無き「みやまん食堂」の二階で、薄暗い店内は長いカウンターとダンススペース、大音量のジュークボックス、そして大通り側にバンドのステージがあった。ワークはスターライト、ニューテネシーの後に続く店でダンスミュージックから70年代のブルースロックを生で聴いて踊れる店として存在していた。ステージは15分3ステージで月・水・金のメンバーと火・木・土のメンバーが入れ替わり演奏し、水曜日は各メンバー入り乱れてのセッションデーとして人気があった。しかし、70年代後半からのディスコブームがくると生演奏は次第に少なくなり、のち店名もカンタベリーハウスと改め別形態の店へと変貌して行った。
宮古におけるジャズコンサートの歴史
いつの時代も音楽に関わる場所はそこに存在していた。あるいはレコードだけ聞くジャズ喫茶など、その形態、音楽ジャンルは様々ながらも音の世界は時代に息づいているが、ライブの原点となる音楽にジャズがある。その宮古のジャズの動きの歴史をここで探ってみる。
宮古のジャズの草分けと言えば、まず宮古ジャズクラブがあげられる。昭和42年頃発足したクラブで、当時、末広町にあった喫茶「エビアン」でレコードコンサートを中心に活動していたという。30回ほどレコードコンサートを続け、その後、ジャズプレーヤーを宮古に招き本格的なライブ活動を始めた。
第1回目のコンサートは、宮古が生んだジャズピアニスト本田竹広だった。さらに渡辺貞夫クインテット、大友義雄カルテット、渡辺文雄クインテット、テテ・モンテリューなど国内外の一流ジャズメンのコンサートが行われた。同クラブは10年ほど活動を続けた。
続いて、昭和47年頃築地にジャズ喫茶「ミントンハウス」が誕生する。店内には1000枚以上のレコードが並べられ、レコードコンサートなどを行っていた。そして昭和52年頃オーナーがミントンファミリーを結成、消えかかったジャズライブの灯を再び復活させた。本田竹広、渡辺文雄をはじめ、向井滋春、中山英二、チコ本田等のコンサートが行われている。
ミントンファミリーは昭和57年に宮古ニュージャズクラブに生まれ変わった。その旗上げに板橋文夫のコンサートを開いたがその後自然消滅した。昭和60年代に入ると、ムシコセクロティマなるグループ主催のライブや、スターライト単独ジャズ・ライブなど各種ライブが繰り広げられた。大野えり、中山英二、宮野弘紀、大橋美加、小津昌彦、モンキー小林、宮沢昭、坂田明、北村英二、福田良などが来宮。さらに南町の喫茶「美学」も、本田ファミリーを中心としたライブを手掛けているなど、ジャズの戦国時代でもあった。