宮古の銭湯
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庶民の社交場ー銭湯
宮古市内で最初に銭湯が出来たのは明治27年。鍬ヶ崎の七滝湯が最初という。それから100年以上の歴史を経過した市内の銭湯ではあるが、一番多い時で19軒を数えた。特に鍬ヶ崎には5軒の銭湯があり、外来船や漁船員らでにぎわう港町ならではの漁業隆盛の時代を反映していた。しかし、時代の変化とともに徐々にその数も少なくなり現在市内では7軒が営業している。
銭湯料金変遷
銭湯の料金は未だに明治政府の発布した物価統制令を見本とした料金設定が続いており、諸物価の値上がりにより推移している。このなかでも利用者及び銭湯経営者も含めてショッキングだったのが昭和48年、58年に相次いだオイルショックだった。当時の銭湯の燃料は便利で安い重油にたよっていたが、オイルショック時は重油の価格が高騰、料金に反映しても赤字になるという銭湯の氷河期でもあった。(表は昭和41年から)
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銭湯料金あれこれ
銭湯の料金は都道府県によって違う。平成16年7月1日現在で、日本で最も格安な料金体系になっているのは沖縄県の200円(大人)で昭和55年から現在まで改訂されていない。岩手県は平成10年に350円に改訂されている。東北地区の中で最も格安なのは山形県の300円(大人)だ。ちなみに最も高いのは東京、神奈川地区の400円(大人)だ。また、現在も洗髪料金を別に払うのは大阪の10円、佐賀県の50円、沖縄県の30円となっている。
消え去った宮古の銭湯
現在市内には6軒の銭湯がある。宮古港がサンマ船の集結基地に指定されていた昭和30年から現在までには最高19軒の銭湯があった。ここでは宮古が最も華やかだった時代を経て消えてしまった銭湯を思い出してみよう。
まずひとつの地区に5軒もの銭湯があった鍬ヶ崎地区。現在は七滝湯、不動園の2軒が営業しているが、以前は上町に「上の湯」「弁天湯」熊野町に「第二不動園」があった。
昭和40年代に住宅地として整備された中里団地には「幸の湯」、昭和初期に県や国の出先機関や官庁が軒を並べた愛宕には「吉野湯」「友の湯」があった。
昭和30年代後半に整備された小山田のあけぼの団地には、団地造成と同時に開業した「上の湯」、ラサ工業宮古精錬所購買部には、職員とその家族が格安で入浴できる銭湯があった。この銭湯の正式な名前は不明だが、一般客も使用でき通称「ラサの湯」と呼ばれていた。
度重なる災害で大被害を受けた藤原には加工屋の煙突に混じり「松の湯」の煙突が立っていた。
そして平成になって、宮古高校前の「銀杏の湯」、最近では二幹線沿いの「冨士の湯」中央通の「福の湯」が姿を消している。最近は緑ヶ丘の緑湯がひっそりとのれんを下ろした。
銭湯うんちく・銭湯の歴史
日本人は風呂好きの民族だ。夏は暑く冬は冷え込む気候風土が日本人を風呂好きにしたのかも知れない。しかし、一般家庭に風呂が普及したのはごく最近であり、ひと昔前までは風呂がない家というのも珍しくなかった。宮古でも昭和30年から40年代にかけて建設された市営住宅等は風呂の設備がなかったため、住民たちは近くにある銭湯を利用した。また、銭湯も町の発展に連動しており、団地などが造成されるのを見込んで開業するパターンもあったようだ。
そんな庶民と銭湯の関係をさかのぼってゆくと、江戸時代に発展した町湯にたどりつく。江戸時代、自宅に据え風呂を構えるというのはよほどの金持ちか上流武士だけであり、ほとんどの人は不特定多数が入浴できる町湯を利用した。当時の料金は寛永元年(1624)から明和9年(1772)まで大人6文、子供4文という料金で安定していたが、飢饉や諸物価高騰により天保14年(1843)に大人8文に値上がりしている。
江戸のような人口過密な都市となると水や燃料となる薪の確保も大変であったことに加え、風呂釜からの火事の心配もあり各家庭での据え風呂は普及せず、庶民をはじめ下級武士すらもっぱら銭湯へ通っていた。
江戸時代の銭湯はほとんどが混浴であり、背中を流したり髪を梳いてくれる湯女(ゆめ)がいたりして、風俗的にも色々と問題を抱えていた。また、当初の風呂は今のようにたっぷりのお湯に浸かるのではなく、格子状になった床下から蒸気をあげる蒸し風呂であった。入り口は蒸気の漏れを避けるため小さな入り口が極端に下側にあり利用者は這って中に入った。中は蒸気が充満しろうそくなどの明かりは使えなかったため真っ暗であった。現在のように湯に浸かるような形となったのは江戸末期になってからである。また、湯屋の形態も様々で、移動式の風呂である「辻風呂」、船の中に湯舟を据え付けた文字通り「湯舟」というものもあり、川沿いに移動しては営業していたという。
幕末期になると多くの客を呼び込むため町湯のサービス合戦も激しくなり、料金は若干高めになるが大勢の湯女をはべらせ、二階の休憩所で酒を飲みながら楽しめるという、特殊な銭湯も出現する。当時、武士道が廃れたとはいえ、男女が裸で湯気がもうもうとする真っ暗な一室にはべるなど許されるはずがなく、幕府では再三にわたり「混浴禁止令」を出すがまったくもって守られなかったらしい。
町湯の二階は休憩所兼脱衣所であり、碁や将棋も備えてあったため、多くの噂や情報が飛び交う場所でもあった。まさに銭湯は情報とコミュニティーの場そのものだったのである。