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宮古と新渡戸稲造

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目次

岩手県を代表する先人・国際人

稲造は文久2年(1862)盛岡に生まれた。東京英語学校、札幌農学校を経て東京大学に入学。アメリカ、ドイツに留学し、帰国後母校の札幌農学校教授に就任。アメリカ留学中に知り合ったメリー・エルキンスと結婚。各大学教授、学者として様々な業績を残した。
明治33年に発表した英文の「Bushido The Soul of Japan」(『武士道―日本の精神』1900)の著者として高名な新渡戸稲造博士。今日では旧5千円札の顔ともなった。岩手県を代表する先人であり、この人こそ日本を代表する初の国際人であろう。武士道は、藩政時代に確立した日本独特の精神を論考した名著だが、未だに脚光を浴びている。
「願はくは、われ太平洋の橋とならん」。日本がまだ東洋の島国であった明治から大正時代、国際平和と理解のために国際連盟事務次長として活躍したことはあまりにも有名。欧米の人々から「新渡戸こそ、国際連盟の良心」と称賛され、大きな業績を残した郷土の偉人でもある。

新渡戸稲造と宮古

新渡戸稲造の手紙が宮古市内に残されている。手紙は大正時代、当時、宮古地方の政治経済に大きな功績を残していた2代菊池長右衛門氏へ送られたものだ。現在は4代長右衛門氏(市内愛宕)が保管している。手紙は、大正3年、宮古地方に講演に訪れ帰路、盛岡に向う際、自動車事故に遭遇。岩手病院に入院し、その見舞いに駆け付けた自動車会社社長の長右衛門氏へ礼状として送ったものだ。
また大正5年にも宮古に訪れた際、宿泊した熊安旅館(現セントラルホテル熊安)にも直筆の書が残されている。この地方の印象を書き残したもので、後年、宮古選出の県議がこの言葉を引用して沿岸部の振興を訴えたとも言う。

新渡戸稲造の手紙

封筒の消印は大正3年。宛先は「宮古港」とだけ記載し受取人の名を書いている。番地はない。新渡戸はこの書簡を盛岡の岩手病院から投函している。

拝復(はいふく)。過般貴地(かはんきち)
出遊(しゅつゆう)の 際には御厚情
感謝に不堪(たえず)。 さて小生
此度の負傷に ついては
一方(ひとかた)ならぬ 御高念 重ね重ね
御見舞下され 難有(ありがた)く
存じ候。 入院後の 経過
も至ってよろしく 一両日中
には帰京の上、 療養
致すを得(う)べしと 存ぜられ候。
先ずは取りあへず、 右、御挨拶まで。
匆々
七月二十八日 新渡戸稲造
菊地長右衛門様

講演後、岩手県初の自動車事故に遭遇

稲造は大正3年(1914)に宮古に訪れている。その時52歳で前年に第一高等学校長より、東京帝国大学法科専任教授に就任していた。
7月22日、下閉伊郡教育部会の講師として稲造は、閉伊街道を人力車でやってきた。講演会は午後1時から宮古町公会堂で開かれ、600名の聴衆は2時間の熱弁に感動。翌日、刈屋村を視察したあと、村民からの願いで、小学校で「自由の精神」について百名の人々に語りかけている。
そして翌日24日早朝。帰路のため茂市の宿から川井に向かうと、前年(大正2年)岩手県初及び東北初の乗合自動車として運行が開始された「盛宮自動車会社」の16人乗りのバスが待っていた。
乗客は7人、2名の運転手と1名の助手の計10人で発車。稲造は案内役の高農の松本講師と並んで運転手の後の座席に腰を降ろした。難所と呼ばれる大峠を越え、松草にさしかった午後3時頃、連日の降雨のため路面が悪く、バスの重さに耐え切れなかった右側の路肩がくずれ、バスは2メートル下の竹やぶに転落した。バスはメチャメチャに壊れ、乗客は外に投げ出された。乗客の何名かが重傷を負った。稲造も、左脚、右肩、腰を痛める重傷となった。案内役の松本講師は腰を打ったが軽く、起き上がって稲造の介抱をした。日が西に傾いたら、やっと労働者風の男たちが通ったので助けを求めた。負傷者は谷から道路に運ばれ、急造の担架で、2キロ離れた松草の宿に運ばれた。稲造は次第に痛みが激しくなり、その夜は一睡もしなかった。急報に接してバス会社が派遣した医師・看護婦が現場についたのは翌朝であった。稲造は担架で盛岡に運ばれ、岩手病院に入院した。経過は良好に向かい、稲造は入院によって軽い糖尿病を発見されるという副産物もあった。
菊池家に残されている手紙は大正3年7月28日付、岩手病院内で書いたもので、見舞いに駆け付けた盛宮自動車社長の菊池長右衛門氏へ礼状として送ったものである。宛先は宮古港「菊池長右衛門」とあり、それだけで届く菊池氏の存在がいかばかりだったかは想像がつく。
その六年後、稲造は国際連盟事務次長となり日本人初の国際人として活躍するが、岩手県初の交通事故に巻き込まれていたことはあまり知られていない。

原敬との約束で国鉄に代わって交通に尽力

悲願の国鉄山田線が開通するまで、沿岸住民の交通機関だった宮古と盛岡を結ぶ盛宮自動車。藩政時代から難所を極めるこの街道の交通確保は大きな課題でもあった。
明治44年、菊池長右衛門氏は、宮古ー盛岡間の宮古街道で自動車運行をするため有志とともに運動を展開した。まだ国鉄も開通しておらず、翌年6月、初の自動車試運転が行われ、大変なさわぎとなり見物人は黒山を築いたといわれている。この自動車は、宮古-盛岡間約6時間で結ぶことができた。これは当時の内務大臣原敬が長右衛門氏に「私は山田線開通の実現に頑張るから、君はそれまでの間交通を確保してくれ」との約束があったといわれ、これにより長右衛門氏は盛宮自動車株式会社を組織することになった。後藤新平や新渡戸稲造も薦めていた。
明治45年8月、盛岡の秀清軒で発起人会が開かれた。総資本5万円とし、宮古漁協50株、津軽石漁協50株、重茂漁業30株をはじめ各団体が協力し、宮古側では菊池長右衛門氏の200株のほか、主だった有志が10株から50株の加入をし、盛岡側は4有志各30株程度の加入であった。早速3万6千円を投じて、客車(バス)2台、トラック2台を購入、いずれもイタリア製フィアット、30馬力の新鋭の輸入車であった。自動車の東北出現はこれが第1号だった。ナンバープレートもこれが1号から4号までさきがけたから宮古の誇りともなったのである。
運行は大正2年6月から開始された。バスは16人乗り、運賃は3円50銭でスタート。宮古の発着所は新町の坂下肉店向いであった。しかし赤字が続き12円50銭、15円と値上げしていった。冬季の11月から4月までは積雪のため休業に入り、この間は京都や大阪のバス会社に貸し出されたという。車両の損傷や赤字経営の中でも原敬から「閉伊の自動車は、汽車がものになるまでやり通せ」と声がかかっていたので、菊池長右衛門氏は「全財産を失っても、鉄道開通までやり通す」と決意を表明し運行を続けた。後に自動車は空気入り小型自動車に替えられた。山田線区界駅が開通した昭和初頭も、区界から宮古への運行も果たし、昭和9年の宮古駅開通まで国鉄の足に代わって交通に尽力した。
盛宮自動車のこの間における功績は鉄道省編纂の『日本鉄道発達史』に記録され永久に讃えられている。

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