大村治五平年表
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1751 | 宝暦 | 1年 | 大村治五平、陸奥国岩手郡盛岡で生まれる | |
1804 | 文化 | 1年 | 露大使レザノフ、長崎に来航して漂流者を引き渡し対日国交を迫る | |
1806 | 3年 | 5月 |
大村治五平、択捉島シャナ詰となる | |
露軍艦ユノナ号、アヴォス号、ペテロハウロフスクを出航 ユノナ号、アヴォス号、択捉島ナイホ沖に姿を現す | ||||
6月 |
小船にロシア人10人が乗り込み択捉島ナイホ番所に上陸。同番所にいたナイホ番所番人、見習など5名を捕らえ、米を強奪後放火 | |||
ユノナ号、アヴォス号、捉島シャナ沖に姿を現す | ||||
小船でロシア人40人がシャナに上陸、シャナ会所に乱入して、武器・米・酒・雑貨を奪い建物に火をかけた。南部・津軽の兵100人余りが敗走 | ||||
大村治五平、シャナに戻ったところをロシア人に捕らえられる。捕虜となった時、治五平56歳。夜、津軽藩足軽、金沢久蔵がロシア人に捕らえられる | ||||
金沢久蔵は病気にかかっていたので、露戦艦指揮官ヴォストフの来航趣旨をしたためた書簡を持たされ開放されたがのちに行方不明。ナヨカ付近で死体で発見される | ||||
ロシア人択捉島襲撃の第一報が箱館奉行所に届く | ||||
ユノナ号、アヴォス号、ウルップ島を経て、5月21日樺太のアニワ湾に至る | ||||
ユノナ号、アヴォス号、ルウタカに上陸。番屋や倉庫などに火をかける | ||||
7月 |
ユノナ号、アヴォス号、礼文・利尻島付近で商船宜幸丸、ついで松前藩船「禎祥丸」官船「万春丸」商船「誠竜丸」を襲い積荷強奪。利尻島に上陸、番屋を焼き払う | |||
捕虜、酉蔵、富五郎、福松、源七、三助、六蔵、長助、大村治五平の8名、商船「誠竜丸」から奪った小船に乗せ開放 | ||||
大村治五平ら8名は宗谷番所帰着。宗谷番所にて取り調べを受ける 幕府、奥州各藩に厳重な海防御触書を廻す |
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9月 |
樺太・択捉島番人7名の「口書」が作成される | |||
南部藩士大村冶五平の「口書」が作成される | ||||
10月 |
大村治五平、病気で箱館に逗留、回復次第江戸に送るよう幕府の指令がある | |||
12月 |
大村治五平、松前を出発 | |||
1808 | 文化 | 5年 | 1月 |
幕府「露船打払令」を出す |
大村治五平、江戸霊岸島の蝦夷会所に到着 | ||||
大村治五平、南部藩江戸下屋敷に移される | ||||
2月 |
河尻、荒尾松前奉行。幕府に上申書を提出、ロシア側にその暴行を謝罪させその証してロシア国重役の釈明書を提出させるとともに奪取した武器類を返還させること、辺土間の交易は国法とは別であると見なして許可することを説き、国境、特に樺太が島なのか大陸続きなのか奥地事情が不明なところにあるとして調査を進言 | |||
3月 |
大村冶五平の「口書」が作成される | |||
4月 |
大村治五平、南部藩引渡しの幕府指令が出される | |||
大村治五平、荒尾成章宅で南部藩士吉田一学に伝達、帰藩する | ||||
大村治五平、江戸を出立 | ||||
大村治五平、盛岡に到着。家老の北監物にお預けの身となる | ||||
7月 |
大村治五平、鹿角大湯(秋田県鹿角市大湯)に蟄居を申し付けられる | |||
1809 | 文化 | 6年 | 1月 |
大村治五平、楢山帯刀知行所の下閉伊郡千徳村(岩手県宮古市花原市)の華厳院に移る |
1813 | 文化 | 10年 | 8月 |
大村治五平、陸奥国閉伊郡千徳村(岩手県宮古市花原市)で蟄居中死亡享年62歳。菩提寺花原市華厳院。大村家菩提寺は盛岡北山の法泉寺 |