大村治五平
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南部藩砲術士として択捉島シャナに駐屯
南部藩と蝦夷地警備の歴史は寛政11年(1799)に松前や蝦夷地方面に異国船が頻繁に出没し、これに脅威を感じた幕府が南部藩、津軽藩に警備を申しつけたのがはじまりだ。大村治五平は盛岡生まれの南部藩士で、文化3年(1806)55歳の時に砲術師として択捉島シャナに駐屯した。事件は治五平が駐屯する2年前の文化1年(1804)にロシアの大使レザノフが漂流した日本人を連れて長崎へ来航し、漂流者引き渡しと同時に対日露国交を幕府に迫ったことに発端する。この時幕府は邦人漂流者は受け入れたが鎖国方針からロシアとの国交を拒否した。幕府にとって鎖国による外国との統制関係はすでに限界に達していたが、弱体化た幕府は未知の大国の脅威を受け入れることはできなかった。そんな幕府の態度を不服としたロシア艦船は一端母国へ引き返したが、文化4年(1807)蝦夷地択捉島沖に出没、砲撃後上陸して南部藩、津軽藩が警備駐屯する番所を攻撃、食料や酒を奪い火を放っている。後これが蝦夷地通いの日本の商船なども襲撃し積み荷を強奪する「エトロフ事件」へと発展する。
この時、治五平は南部藩砲術師として応戦したが被弾、抜刀してロシア軍へ斬り込み捕虜となってしまう。後にロシア軍は海上で拿捕した日本の商船「誠竜丸」の小舟に治五平ら捕虜8名を乗せ松前奉行に対する書簡を持たせ解放した。
この事件に対して幕府は現場の事情聴取後、翌年の文化5年(1808)に「露船打払令」を発布、蝦夷地警備に一層力を入れた。大村治五平は松前を経て江戸の蝦夷会所に引き渡され南部藩江戸屋敷に移された。幕府は大村治五平から調書を取り、ロシア側に謝罪させるとともに奪取した武器類を返還させることを宣言。結果的に両者の行き違いは国境、特に樺太が島であるのか大陸と続いているのかその奥地事情が不明なところにあるとして今後調査することを決定した。
この年のうちに大村治五平は幕府から南部藩へ引き渡され盛岡へ到着、厳しい詮議を受けた後、蟄居の身となり鹿角大湯を経て、楢山帯刀(ならやまたてわき)の知行所下閉伊郡千徳村・花原市の華厳院に移り蟄居の身のまま文化10年(1813)この地で62歳で没する。 傷を負いながらも抜刀して敵陣へ突撃した大村治五平であったが、捕虜となって返還された屈辱と、警備番所に詰めていた幕府役人らの偽りの報告により帰国後の悲運が待っていた。役人らの中にはその後蝦夷地を調査し、間宮海峡を発見する、間宮林蔵らもいたが、それらの報告は大村治五平が戦死したものと仮定して 蝦夷番所や幕府役人の失態をなすりつけたとも考えられ、貴重な敵陣情報を得て帰還した大村治五平は窮地に立たされることになる。歪曲された事実、幕府役人たちが机上でしか見ていない現場の惨状、そして己の濡れ衣を晴らすため大村治五平は『私残記』を執筆、身の潔白だけでなく、当時の日本が置かれていた立場、蝦夷地での対ロシア戦、ロシア戦艦の詳細や図版、ロシアの言葉、風俗などまでをまとめている。
大村治五平終焉の地・華厳院
華厳院参道脇に「大村治五平翁終焉之地」という石碑がある。碑は約1.5メートルほどの御影石で、前面は磨かれ中央に大村治五平翁終焉之地、左下に金田一京助謹書とある。裏面に回ると凹みがあり、ここには磨かれた御影石などで詳細を記した石版がはめ込まれていたと思われる(現在は紛失)。石碑は昭和47年に大村治五平の遺族が建立したもので、その際に石碑を説明する看板などを建ててくれということで宮古市に寄付がありトタン張りの看板を建てたがその後朽ち果て現在は老朽化し撤去されている。また、幕府の事情聴取の後、南部藩に戻った治五平は蟄居を言い渡され、華厳院にて没したため同寺墓所に葬られた。蟄居の身であったため長い間石が乗せられただけだったが、遺族らの手により昭和32年墓碑が建立された。戒名は「孤隣軒徳隠宗入居士」で鎌倉円覚寺管長・朝比奈宗源氏の書によると伝えられる。
治五平が残した著書『私残記』
治五平が執筆した『私残記』は大村家にとって門外不出で他人に見せてはならない文書として昭和18年まで眠ることになる。『私残記』が日の目を見たのは治五平の子孫に当たる大村次信氏が義兄であり盛岡出身の第18回直木賞作家・森荘已池(もりそういち1999没)氏による。この時期は戦時下であり大和書房より『私残記・大村治五平によるエトロフ島事件』として2000部しか発行されなかったが戦後、中央公論社から『私残記』復刻の形で発行された。