南部重信
- なんぶしげのぶ【分類・藩主】
- 江戸時代:元和2年~元禄15年(1616~1702)
下閉伊郡花輪村に生まれた第29代南部藩主
南部藩第29代藩主、南部重信は27代利直の五男で、元和2年(1616)5月15日、下閉伊郡花輪村に生まれた。それゆえ花輪殿様と呼ばれる。出生の由来は誕生の前年、南部利直が沿岸地帯の津波災害の視察のため宮古を訪れ、花輪村に20日余り宿をとった。その間宮古の町割などした際、側に使えた花輪内膳の娘、松(おまつ)との間に出来たのが重信である。重信は幼い時の名を「鍋丸」と呼び、花原市の華厳院の住職を師に殿様の子として大切に扱われた。14歳まで生まれた土地の花輪に住み、15歳になって盛岡城へと移った。
盛岡城に移った重信は花輪重政と名乗り、33歳の時、南部家一族の七戸隼人が亡くなったため、そのあとを受け継ぎ名前も七戸隼人正と改めた。それから16年、寛文4年(1664)9月、11歳上の兄、28代藩主南部重直が江戸屋敷で亡くなった。しかし、重直には世継ぎがなく、また贅沢の限りを尽し、幕府の参勤交代にもなまけ将軍家から睨まれていたという。そのためお家断絶を宣告される可能性もあった。七戸隼人正と弟の中里数馬直房は将軍に呼ばれ、領地十万石を取り上げられたが、隼人正に八万石、数馬に二万石が命ぜられた。これにより重信は第29代藩主となったが、この時から南部藩は盛岡南部と八戸南部に分けられた。
重信の時代は盛岡の町も漸く体裁が整え出した頃で、重信の施政、善政が沢山残されたという。また重信の時代の貞享3年(1686)2月29日の夜半に岩手山が噴火している。また重信は好学の藩主としても知られ、歌才に優れて歌集も残してある。市内田鎖の桜堤公園には、生母「松」の五十回忌に詠んだ「うけよ母五十の霜にかれやらて 残るかひ有この手向草」の歌碑が建立されているほか、市内花輪の松の墓が祭られている華森神社には、重信が七戸城主になる時に詠んだ「鶯の聲にそ春はしられけり 垣ねの雪はまた消えねとも」の歌碑が建立されている。