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十三仏と岩屋と鞭牛碑群

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 牧庵鞭牛が林宗寺を隠居した宝暦5年(1755年)は、盛岡藩の四大基金の1つにあげられる「宝暦の大飢饉」の年であった。この年、鞭牛は南川目にやって来て岩屋を開き、「開山碑」を建てた。翌年には、北川目の滝に「布引白糸之滝開山碑」を建て、南川目の十三仏の霊場も、鞭牛が再興したとされている。
 これらの場所は鞭牛がお寺のように「開山碑」を建立したり、供養を行ったりしていることから、鞭牛の修行と信仰の場であったと考えられている。
 一方、鞭牛は閉伊街道の整備(宝暦8・9年)と前後して、北川目・南川目の難所を開削している。この地域には、豊間根から腹帯に抜ける道が通っており、交通の要所として花輪経由の道からも物資が運ばれていた。しかし、険しい岩場と谷が続く危険な道で、物資の運搬も容易ではなかったことから、開削にあたったと考えられる。
 この時も、鞭牛は開削が終わると供養碑を建てたので、北川目・南川目には鞭牛の道・橋の供養碑が6基も残されている。
 また、築地のNTT裏にも鞭牛の碑がある。破損のため詳細は不明だが、この日の存在から、鞭牛は当時の宮古町と鍬ヶ崎の間の難所、通称「七戻り」も開削したと考えられている。

出典:広報みやこ「新ふるさと博物館」

指 定:昭和58年10月24日・市指定史跡
場 所:宮古市長沢6-13-2、6-15-2
問合せ:宮古市教育委員会文化課0193-62-2111
【参考資料】宮古の教育:宮古市教育委員会(各年度改訂)

テンプレート:しるしる

関連事項

地図

https://goo.gl/maps/vtGWb :十三仏と岩屋

https://goo.gl/maps/NHYt5 :NTT裏鞭牛の碑      

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