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内舘元右衛門

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長沢一揆首謀者として死罪となった

一揆常習地帯の南部藩において文政9年(1826)宮古長沢村・四戸甚之丞の知行地から一揆が勃発している。四戸氏は400石を領する南部藩の上級武士で、宮古代官所代官も勤めた家柄であり閉伊川筋の長沢、根市、老木に約150石の知行地を持っていた。この頃の長沢村は四戸、楢山などの領地が複雑に入り組んでいて、それぞれ年貢率が違っていたため隣り合った田圃で年貢の差が発生し農民の不満は蓄積するばかりだった。加えてこの頃の四戸家の経理状態は逼迫しており、四戸家存続のためにも知行地には過剰な年貢をかけていた。
 四戸氏の横暴な年貢率に対し、四戸氏の領地替えを訴えたこの一揆の首謀者は内舘元(げん)右ェ門という人だ。元右ェ門は長沢村北川目の農家の三男として生まれ家を継いだ。そして因果なことに領主四戸甚之丞に召し抱えられ、侍として四戸家給人となり四戸家の累積赤字を解消するため奮闘したが、失脚し牢獄につながれ、後に士分を捨て北川目に戻り農民となったという複雑な経緯がある。元右ェ門は名家としての名にすがりどこまでも贅沢好きの四戸家の内情のすべてを知っており、年々増してゆく年貢によって苦しむ農民たちが助かる道は、宮古代官所に直訴するしかないと考えた。元右ェ門は四戸氏の悪政をひとつひとつ書面に記し、長沢、根市、老木の代表とともに代官所へ訴え出た。弱腰の宮古代官所ではことの重大さに本庁(盛岡)へ採決を仰ぐとともに、農民に蜂起されては代官所の面目が立たないと説得を試みるが、元右ェ門らは直接盛岡へ直訴しようと、文政9年6月3日、長沢河原に100人以上の農民たちが集まりむしろ旗を揚げた。
一揆は盛岡から駆けつけた役人たちと談合した結果、農民らの意を汲み四戸氏の知行地取り上げと以後藩直轄管理、10年間の年貢免除という解決となった。しかし徒党をくんでの直訴は禁制であったため首謀者の元右ェ門は罪を受けなければならなかった。そこで農民たちは元右ェ門を密かに仙台領へ逃がしたのだが、翌年謀略により故郷北川目に帰ってきた元右ェ門は自宅で捕縛される。罪状は一揆を企て徒党を扇動し藩に直訴したことであり断罪に処するというもで、文政10年(1827)6月9日宮古藤原の刑場で71歳で死刑となった。生家の墓所にある墓碑には次の辞世の句が刻まれる。

  • ほのぼのと 野地もいつも 花盛り

一揆後元右ェ門の功徳により四戸氏知行地から藩直轄地へ、年貢免除・軽減があり長沢、根市、老木の農民は安心して農業に専念することができた。農民たちは元右ェ門の霊位を農神として奉り「長元神社」を建立。また元右ェ門を後世に長く伝えるため、明治中期頃、農神元右ェ門碑建碑運動が起こった。碑文は津軽石の生んだ幕末明治の詩人・山崎鯨山に依頼、晩年盛岡に住んでいた鯨山は快諾し長沢一揆に至る経緯と説明、その結果元右ェ門が捕らえられ死罪となったこと、農民らが敬意をもって元右ェ門を奉ったことを漢文調で説明し、一遍の詩を添えて明治27年(1894)に撰文を送ってきたという。結果的にこの碑は建立には至らなかったが、鯨山の没年は明治29年(1896)だから、この作品は鯨山73歳の晩年の価値ある文章であったといえよう。

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