佐伯裕則
- さえきひろのり【分類・芸能】
- 昭和~平成:昭和35年~平成11年(1960~1999)
佐伯裕則はその天才的な神楽の感性をもって30代という若さで黒森神楽の胴取りとなった。その後は伝統民俗芸能としての黒森神楽の存続、失われた演目の発掘、新旧神楽衆の統率と、後進育成など黒森神楽の棟領として頭角をあらわし各方面から高い評価を受けた。
佐伯裕則は昭和35年8月10日、下閉伊地方で古くから活動していたという山伏の血をひく家に生まれた。昭和54年岩手県立宮古水産高校を卒業、56年には黒森神楽の神楽衆となる。60年には神職養成講習会、権正階の過程を修了、61年には黒森神楽衆として米国スミソニアン協会主催の『フォーク・ライフ・フェスティバル』に招かれ渡米、同年、黒森神楽は岩手県無形民俗文化財に指定された。平成8年には文化庁選択「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に認定され、この年、佐伯裕則は黒森神楽衆の代表でもある頭領(親方)となる。その翌年には国立劇場での『獅子の系譜Ⅳ』、日本青年館主催『文化庁企画・全国民俗芸能大会』に出演、その間も、毎年の神楽巡業、市内各神社祭礼、曳船などの神楽奉納、各種民俗芸能祭、小中学校の伝承活動など精力的に参加、胴取り、時には舞い手として多くの人々に神と人が共存する神楽の世界観を伝えてきた。
しかし稀に見る神楽の天才とまで謳われた佐伯裕則だったが、その道程は厳しいものだった。厳しい修行と師匠達からの聞き取り、長期にわたる神楽巡行をはじめ、各イベントなどに参加する機会が多くなるにつれて生活の基盤を得る本来の仕事に支障が出るのは当然であり、安定した定職と神楽中心の芸能生活は両立できるものではなかった。しかし歴代の胴取りが引退し佐伯裕則が黒森神楽の胴取りとなり、いつしか黒森の佐伯は黒森神楽だけでなく東北、そして日本の芸能を支える人になっていた。
「神人和楽(しんじんわらく)」。神も人も和み楽しむ。そんな意味の言葉だという。人が神を演じることで人も神も楽しむ、神楽と芸能の申し子であり、近年の黒森神楽を支えた佐伯裕則の思想はまさにこれだった。
佐伯裕則にとって最後の芸能活動は平成11年の宮古郷土芸能祭だった。身体の不調にもかかわらず出演し胴取りとして太鼓のバチを振るったが演目を終えそのまま入院。闘病の甲斐なく12月1日、40歳という若さで他界した。黒森神楽の関係者にとって至宝の逸材を失ったが佐伯裕則が指導した後進たちが現在の黒森神楽を支えている。「これからも何度か巡業や存続の危機に見舞われるかも知れない。しかしそんな時こそ佐伯裕則という人物がいたことが私たちの励ましになるに違いない」と関係者達は語る。