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2013/02 エロ本店国

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 野生児ではないが野山を「ハッサリグ/走り回る」のが日課の少年時代だった。友だちは皆、団地住まいで風呂は銭湯だから、中学に入ればあそこに「ケッコ/毛」が「オエデ/生えて」くるんだ…という程度の性知識はあった。そんなのほほーんとした少年たちが閉伊川の藪の中でエロ本を発見すると大騒ぎになった。夜露で濡れてぶ厚くなったページが「ブッツァゲネーヨーニ/裂けないように」「スズガッコニ/静かに」めくって美人のお姉さんのおっぱいが大写しになったグラビアを見ては「すげーすげー」と歓喜の声を上げた。これらの雑誌はゴミとして捨てられたものでエロ本と言ってもカラーグラビアがついた大人用のマンガや平凡パンチなどの情報雑誌だった。少年らも「センダッテ/ついこの前」までは母親と銭湯の女風呂に入っていたわけで、本当は女性のおっぱいで騒ぐほどでもないのだが、やはり少年とは言え男同士のお約束なわけで、エロ本はあくまでも狩の獲物的拾得物であった。また、住宅ラッシュだった時代だから毎日どこかで住宅の建設があったり、モルタル集合団地の新築などで多くの大工さんや職人さんが仕事をしていた。そんな建築現場にも多くのエロ本が散乱しており、現場が休みの日曜日などは忍び込んだ少年たちの獲物となった。しかし、僕の経験から最も過激なエロ本が散乱していたのは転校先の造酒屋の杜氏の部屋だった。杜氏は農閑期に内陸からやってきて酒を仕込み春になれば帰ってゆく。その間部屋は空き部屋となって仕込みの間に「テークズ/退屈」しのぎに買ったエロ雑誌はそのままになるのだった。僕の友人家族はその造酒屋に管理人として住んでおりよく遊びに行ってはエロ本探検をして遊んだ。それは河原で拾うふやけた雑誌や、建設現場に捨てられた雑誌などの次元を越えたマニアックで少年にはエロいけれど理解不能なエロ本であった。情報として目から入るめくるめく写真と見出しは少年の下腹部に重い血液を送るには充分すぎる刺激だった。

 昭和40年代も終わる頃、今はもう震災で「ガラット/すっかり」様変わりしてしまった中央通りに貫洞書店という「チッチャッケー/小さな」「ホンコヤ/本屋」があった。売っていたのは週刊誌や月刊誌が主で、中には今で言う『正論』や『諸君』みたいなお堅い雑誌もあったのだが、貫洞書店のトロ的書籍は通常の本屋にはあまり置かれていない過激なエロ雑誌だった。店は週刊誌が平積みされていて、最深部がレジでいつもここには無口なおばあさんが座っていた。エロ雑誌は盗難防止を兼ねてこのおばあさんがいるレジ近くに置かれていた。これらはページを開いて中身を確かめるには「ショースー/恥ずかしい」が店主は無口なおばあさんだし、週刊誌と一緒に差し出せば知らん顔で成人雑誌も一緒に会計してくれるから好都合だった。当時、貫洞書店以外の本屋でも過激な成人雑誌を売っていたのだが、ほとんどの店では棚に背だけを見せて並べ、興味をそそる表紙を見せない方針をとっていた。これはもちろん青少年に悪い影響を与えると思われるからだが、本屋とてニーズがあるから仕入れるわけで、表向きはお堅く悪書追放と言っても、人の都合で他人の性欲に衝立を立てても意味がないわけだ。それでもエロ雑誌を買うときに「オメサン、トスハ?/あんた年は?」とか「コレハ、オドナノ、ホンダガス/これは大人用の本ですよ」と「サベラレダラ/言われたら」「ナードスベー/どうしよう」…と心臓は高鳴るのだが、そんな自制心より今、昂ぶるスケベへの興味は絶大なわけで、中身はちゃんと見てないけれど、思い切りどぎついタイトルの雑誌と週刊誌を渡すと、おばあさんは算盤で合計額を確かめ「○○○円、はい、おおきに」と言って僕の出した千円札を受け取りおつりをくれる。僕は外に出ると紙袋に入った週刊誌とエロ本を無造作に自転車のカゴに放り込んで大きな深呼吸をして安堵するのだった。

 そんな昭和50年代後半、僕はすでに成人し高校時代あれほど焦がれた成人映画も堂々と見られる年齢となっていた。が、しかし、その時代、ビニール袋で密封されたエロ本・通称、ビニ本ブームが日本中を席巻した。ビニ本は都内のアダルトショップや都内某所の歩道橋の上などで客に直販されていた裏本(モロからみ写真本)が進化し、表紙は見えるが中身閲覧ができない透明ビニール包装で販売された正規書籍ルートで流通しない特殊エロ本だった。田舎では対岸の火事状態であったがブームというのは恐ろしいもので、なんと、この片田舎・宮古にもビニ本ショップが開店したのだった。しかも、その店舗は繁華街ではなく横山八幡宮鳥居の真正面であり、道路をはさんで宮古第一中学校の真向かい県立宮古高等学校の近所であった。当然ながら学校関係者や父母会は「ヒトーバガニスター/人を小馬鹿にしている」と大騒ぎとなり移転陳情はローカルニュースでも取りあげられた。友人らはそんな状況を素早く読み取り早く行かなければ「スマッテスマーベーガ/閉鎖してしまうだろう」と言う。ならば急いで行かなければ男じゃないよ、ということで友人4人ほどで見学に行った。その店は○○書店とかの名はなく、入口に「ビニ本」と書かれ入口は曇りガラス風になっていた。店内は意外と明るく雑誌が平積みされ、なるほどその表紙にはそそるお姉さんたちがあられもない姿で百花繚乱状態で激写された毒花雑誌がビニールで封をされて並んでいた。「記念に誰か買え」ということになり年長者が一冊購入し早々に店を出た。この宮古初のビニ本専門店が閉店したのは間もなくだった。思えば短い営業期間だったが、逆に都内で下火に向かっていたブームを見越して市場でダブついたビニ本を田舎へ持ち込み売り抜ける臨時店舗であったかも知れない。経営は今は無き某飲食店の経営者だったのかも知れない。  

宮古弁の新書案内

さんこみだら

もうまったく手のつけようがないぐらいに散らかった様子。散々に乱れるという意味か。

 この連載を長年続けていると「こんな宮古弁知ってる?」と、奇妙な宮古弁を聞かされることがある。だがそんなことを言う御仁もすでに記憶回路もスクラップ同然だから「あれ、何だったけ?」と自らの老化に嘆くだけのようだ。そんな会話の中に昔、よく通っていた喫茶店のお姉さんが言った言葉に「サンコミダラ」があった。「何それ?」と聞き返す僕に「あれ、知らないの?」とくどくど説明された。そのお姉さんは当時の田老町出身で宮古に住んでいた。両親は田老鉱山関係の人で元々この辺の人ではなかったらしい。苗字も変わっていて当時宮古で一軒しかなかった。「サンコミダラ」はめちゃくちゃにぶっ散らかった様子で、「散々」に「乱れる」という意味で怪しげな「淫ら」とは関係ない。『宮古ことばのおくら』坂口忠著によれば文例として与力同心の会話を引用しており、宮古弁というより古語、江戸期には共通語であり時代と共に使用頻度も減り、辺鄙な地域に取り残された言葉だと思われる。

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