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2009/08 跡地の石碑巡禮

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 ある時代人が集い、そして長い月日を経ていつの日か誰もいなくなる…そんな場面を何度も見てきた。小山田に並んでいたラサ工業で働く人たちの社宅、市営のあけぼの団地、堤ヶ丘団地など小さなマッチ箱のような家に人がひしめいて暮らしていた時代があった。路地には子供があふれほんの小さな空間も子供たちの遊び場になっていた。あの頃そんな日常がずっと続くものだと信じていたが、昭和が終わり平成となって21世紀となった今、人はどこかへ消えてしまった。思えば新興住宅地でなくともまちは空洞化している。広場で陣取りや縄跳びをしていた子供たちの姿は幻であったかのように己の記憶を疑ってしまう。今月はそんな昔を思い出す跡地に建てられた石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は山口公民館敷地内にある石碑だ。碑は石柱状で中央に山口小学校跡地とあり、後ろに山口小学校第廿代校長橋本哲男書とある。碑の横に山口小学校の由来が刻まれた石碑がある。それによると明治35年(1903)4月に慈眼寺に間借りする形で山口尋常小学校として開校し、7年後の明治42年(1909)に石碑のある現在の山口公民館に99坪の校舎を建設、大正13年(1924)には高等科を設置山口尋常高等小学校となり、昭和16年(1941)には山口国民学校、終戦後の昭和20年(1945)学校改革で山口小学校と改称、同28年(1953)この地から現在の鴨崎町に移転したとある。明治6年(1873)に制定された学制頒布により江戸時代からの私塾が廃止され町村単位で学校の設置が可能となった。宮古ではこの年に後の宮古小学校となる宮古村第二番小学校、鍬ヶ崎小学校となる鍬ヶ崎第三番小学校が開校し、翌年から老木、千徳、刈屋などに村立の小学校が創立している。明治22年(1889)には宮古の町村制実施となり各地に学校が乱立しているが、山口尋常小学校の開校は他の村に比べかなり遅く、その間、山口村の児童らは小学校へ通っていなかったのかどうかは資料がないため不明だ。

 次の石碑も学校に関係する石碑だ。この石碑は中里団地の旧愛宕中学校敷地内北西側にあり、この地が元愛宕中学校であったという証しを後世に伝えるものだ。碑は横長で右に「ここに愛宕中学校があったことを記す」とあり、学校沿革、校歌が刻まれ、左に平成十三年三月二十四日建立、設置・愛宕中学校閉校記念事業実行委員会、瀬浪石材店とある。愛宕中学校の学校沿革は次の通り。昭和22年(1947)宮古第二中学校愛宕分室として設置、25年(1950)独立、36年(1961)中里団地に移転新築。その後卒業生4073名を輩出したが児童数減少に伴い平成13年3月24日学校創立51年の歴史に幕をおろした。現在学校跡地は平地となり校門のみが残る。

 次の石碑は昭和46年(1971)廃坑となった田老鉱山にある記念碑だ。碑には田老鉱山跡とあり裏面には鉱山の成り立ちとそこで働いた人々への賞賛の文があり、平成元年十月吉日、ラサ工業株式会社、学校法人明星学苑、元・田老鉱山従業員一同と刻まれ、台座下に皆野川忠平書、施工・鈴木石材店とある。横には沿革を刻んだ碑があり、安政年間(1854~59)に易者・高島嘉右エ門によって発見された伝承から大正8年(1919)のラサ工業による買収、昭和8年(1933)の本鉱床着、昭和36年(1961)の三陸フェーン大火による全焼を経ての再建そして昭和46年(1971)の閉山、学校法人への売却までの道程が刻まれている。

 最後の石碑は同じ跡地でも神社の跡地だ。碑は黒森神社社殿前の石段下にあるもので、御本社旧跡と刻まれた石柱が台座に見立てた大石の上に載せられ、コンクリートで固定されている。側面には年号らしき文字があるが補強のコンクリートで読み取ることはできない。石碑前には石の賽銭箱があり側面に平成一六年五月吉日、有限会社佐々清石材店、裏面に台座狛犬用一対、踏石本堂前四本、台石本堂上り口、賽銭箱と刻まれている。

 古い歴史がある黒森神社だが現在の社は江戸時代後期に建て替えたたもので、以前はこの石碑があった場所に社があったとされる。また神社は以前にも何度か遷宮したとも考えられており、現在の社がある尾根の向かいにある旧参道脇に本殿があったとも考えられている。黒森神社を含む黒森山は南北朝期以前から信仰されていた神社でもあり麓には安泰寺、赤龍寺の天台真言系の寺も従えていたこの地方最大の霊山であった。

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