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2008/12 変わった形状の石碑を巡る

提供:ミヤペディア
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 石碑を探して野山を歩き、手元の資料には掲載されていない掘り出し物の石碑を探そうと墓地を歩き、石に彫られた文字の難解さに首を傾げる。毎月そんなことをしていると「そろそろ石碑も飽きたな、なにか別のカテゴリーで違うことをしようかな」と思うのだが、結局毎月なにがしかの石碑の写真を撮ってこうして掲載している。なにせ旧田老町、新里村と合併した宮古市は、旧各町村に点在していた石碑も合併したわけで、このコーナーで取り扱うべく可能性のある石碑も増えてしまったのである。さりとて資料もなく宮古市とは言え先日までは別行政だったから地理的感覚や旧字名も判らない。はなはだしい話、一度も走ったことのない林道や山奥の道路もあって、はたしてこの道がどこに着くのかさえわからないこともある。先日も田老末前地区から旧田老鉱山へ抜ける林道を走ったが、この道がえらい遠回りで、立派なガードレールが設置され平成16年に完成したという割にすでに道は森と化しており、ほとんど誰も通らない林道に莫大なお金が費やされた実体を目の当たりにした。まぁ、早い話、宮古市は広くなった。いや、なりすぎたのではなかろうか?今後新たな合併のプランも浮上しているが、足元が見える範囲で文化面を立て直す方が先決だと思うのは僕だけだろうか?

 さて、石碑散策をしていると色々な碑文、その碑文の書体、石碑の大きさ、石の材質、移転の形跡などなど石碑によって色々な情報が読み取れる。舘合町の通称・一石様に建立される経塚の碑、鍬ヶ崎小学校裏の公園にある暦応の碑などのように崇高な思想のもと刻まれた石碑もあれば、「妻之神」「歳ノ神」で村はずれに建てる「塞ノ神」だったり、間違えたのか故意なのか「親類中」を「新類中」「万霊塔」を「万霊等」としたユニークで庶民的なものもある。そんな石碑の分類で形がユニークなものもあり今月はそんな石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は蟇目地区の日枝神社境内にある石の卒塔婆だ。卒塔婆とは戒名や供養の文言を僧侶などが謹書して墓に供えるもので、現在も永代供養などの際、寺から渡される上部に庇のついた木製の板がそれだ。一般人が死んで遺族が墓を建てるようになったのは江戸中期ころからで、それ以前は位のない人々の墓は土葬して卒塔婆を立て、のちに目印として手頃な石を乗せておく程度だった。それに比べ、石の卒塔婆は方形の墓碑が一般的になる前の時代、その地区の権力者のような人物のために建てられたものと考えられ、江戸以前のものとされている。一説には中世の時代に蟇目一帯を統治していた「蟇目氏」の追善供養で建立されたものであり、建立年月日は鎌倉末期の元弘2年(1333)とも伝えられている。しかしながら石碑の表面はかなり風化し、ほとんど文字は読めない。この碑の建立年代が本当ならば、暦応の碑(1340)より7年古く宮古最古の碑となる。

 次の石碑は根市鈴ヶ森神社境内にあるもので、細長い深成岩の自然石を使って石碑としている。碑文は古峯(ふるみね)神社でその他詳細は本体が細いため台座に大正十一年(1922)一月十七日、當地内一同建立とある。古峯神社は 日光の古峰ケ原にある神社で、天狗を祀ると一般に言われているが日本武尊を祀り、火防、盗難除、五穀豊穣の神として東北・関東信越に信仰がある。古くは古峰ヶ原講として村落単位に組織された代参者が交替で参拝していたという。この石碑は天狗の鼻をイメージしたのかどうか判らないが大正末期に根市村・村社として鈴ヶ森神社が神仏分離令にのっとり境内に日本武尊に通じる古峯神社石碑をはじめ、聖徳太子、天照皇大神の石碑を建立し村社としての新たな御神体を得た時のものと考えられる。加えて社右脇にある小祠に祀られる5体の木像こそが旧鈴ヶ森神社の御神体ではなかったかと推測される。

 次の石碑は長沢のはずれ長元神社の石碑群にあるもので、特殊な形に割れた自然石の右側斜め部分が碑文スペースとして有効利用されている。碑は卍に念仏供養塔とあるのみで年代などはない。この石は川などから拾いあげたものではなく石切場や切り通しなどの開削で得たような石と見られ表面に浸食などはない。この碑がユニークなのは碑文スペースが斜めなため刻まれた文字も斜めになっているところだ。

 最後の石碑は鍬ヶ崎蛸ノ浜町の九峰山心公院境内の石碑群にあるもので、江戸末期、独特の亀マークで石碑や石宮を作った石工・亀治(次の場合もあり)の馬頭観音だ。石碑は右下にあたかも馬をつなぐような自然の穴があり亀治はその穴を生かした意匠で石碑に文字や馬の絵を彫り込んでいる。年代は文久三癸亥(1863)八月吉祥日となっている。

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