黒雲雷八
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- くろくもらいはち【分類・力士】
- 江戸時代:正徳3年~安永4年(1713~1775)
閉伊通り出身の南部藩力士
花輪出身の力士で藩制時代に江戸の大相撲で最高位である大関として5年間も君臨したのが黒雲雷八である。雷八は藩公の駕籠(かご)の担ぎ手として南部藩に仕えたのち、藩お抱え力士として宝暦年間に活躍した。
相撲経歴は次の通り。
宝暦4年 東大関 南部 黒雲雷八
同4年 東 小結 南部 黒雲雷八
同9年 西 大関 奥州 黒雲又左エ門
長沢地区の長元(ちょうげん)神宮周辺の石碑群の中に雷八の碑がある。それには安4永年(1775)甲未一二月廿五日長沢邑某何男黒雲雷八享年六二才卒の年号があり、戒名は「寒雷轟發信士」。またこの墓碑の右側面には雷八の自作の句とされる「黒雲や 風に聳(そび)ゆる 我が故郷」が刻まれている。雷八は風雅の道にも遊ぶことがあったものとも見える。
この墓碑は、「神業の力士」と50回忌供養に村人たちが文政8年(1825)に建立したものである。しかし、雷八の出生は不明。諸説様々あり、伝承や逸話の中では、少年時代からの力持ちで山で骨折した牛を里まで担いで来たとか、大石を担いで帰って来た。その石が現在長沢の折壁地区にある庚申塔がそれであるとか、相撲を取る時には青竹のまわしをつけたなどの話も残されている。また、秋田佐竹藩の抱え力士「太平山三吉」と勝負してこれに勝ち、雷名を轟かせたとも。さらに強いがために秋田興行中に毒殺されたとの説もあり、昭和初期まで秋田の旅芸人は「碑より奥には入ってはならじ」と、ここから引き返したという。