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黄金の避雷針

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本当なのか?黄金の避雷針伝説

市内小山田の小高い山に大煙突がそびえ立っている。高さは160メートルで、市街地からならどこでも見える。ある意味、宮古のシンボルでもあり、帰郷の際のふるさとを実感できる特異な煙突である。宮古の人々はこれを「ラサの煙突」と呼ぶ。ラサとはかつて宮古最大の企業として存在していた銅製練工場のラサ工業である。経済や文化を常にリードし、宮古と言えばラサ、ラサと言えば宮古というくらい、両者は表裏一体の関係であった。
そのラサの煙突には黄金の避雷針がついている、という伝説、噂は古くから伝えられている。月刊みやこわが町ではこのことを昭和57年10月号で紹介したことをきっかけに「黄金の避雷針伝説」は瞬く間に、市民の間に広まったのである。過去にはそれが本物かどうか確かめるテレビ局のイベントも行われた。結局確認するに至らなかったが、煙突は謎を秘めたまま今なお天に向かって聳える立っている。

避雷針プロローグ

ラサの煙突の避雷針が黄金という話は、当時の月刊みやこわが町のとあるコーナーでは次のように紹介された。

「時は昭和10数年頃、もちろん太平洋戦争前である。正確な日付は分からないが、宮古小山田の大工場ラサ工業宮古精錬所は、日本で2番目に高いという煙突を、工場の裏手にある山に立てたのだ。その高さは160メートル、下の直径9メートル、上の直径は5メートルという巨大なもので、戦火にもあわず、そして天災にもビクともせず、現在に至る。とにかく宮古で一番高い建物であろうか。そして、そんな高さの煙突だから(いやいや高い煙突ならすべてこうかもしれん)その真上には雷避けの避雷針がつけられているのだ。
しかし、ここで本気になって考えてみる。煙突から出される煙(酸度の強い煙と思う)と長年の風雨にさらされる避雷針は並みの金属ならたちまち腐蝕する。となりゃ、何年いや何十年に一度は交換していかなけりゃいけない。しかし、どうやってあの煙突へ登るか。双眼鏡でのぞいてもハシゴらしい物は見当たらない。そしてここ数十年間、煙突に登ったという人間は誰も居ないという情報も入ってきた。そしたら、避雷針はかなり風化されているだろう。でも、雷は煙突に今でも落ちるのだ。確実に避雷針はある。と、ここまで話せばもうわかっただろう。『どんな酸にも強く、風化などの自然作用にも強い、材質の変化しない金属』を使った避雷針。それは何かと尋ねれば「金・金・金」。それも「純金」である。
その直径30センチ前後、長さは150センチ前後だという。そして煙突に付ける純金の避雷針をセットする前の数日間、金庫に入れて寝ずの番をした。と言う人が現在まだ生きてるって話である…(略)」。と、こんな風に紹介された。
その発端は、本誌編集記者が市内のとある小料理屋で偶然隣り合わせた人が、このような話を聞かせてくれた事だった。それをこのように紹介し、さらにはどうやってこの純金の避雷針を確認できるか、あるいは持ち去る事が出来るかなど、図解入りでその確認方法を紹介したのである。

会社でも語り継がれる伝説だった

一方、当事者のラサ工業の1993(平成5)年に発行された「80年史」にも、この黄金伝説の事は取り上げられている。「談話室25」というコラムには次のように書かれている。
三陸海岸の一角、宮古市に太平洋の荒波を見下ろして聳える巨大な煙突は、宮古市内や宮古湾の海上のどこからでも望見することができる。160メートルの高さは、わが国で第2位であり、おまけに標高90メートルの丘の上に立っているから、煙突最頂部の海抜は250メートルである。
この煙突は、昭和13年、宮古製錬所の建設開始とともに稼働を開始。巨大な煙突を作ったのは、いうまでもなく公害防止のためである。銅の製練の際には亜硫酸ガスが発生し、放っておけば環境を汚染するからである。設備の建設に当たっては、もちろん、SOx(硫黄酸化物)の回収には十分な対策を講じているが、排煙をできるだけ高いところで拡散しようというわけ。
ところで、この煙突は、稼働を止めた後も、興味深い謎を抱いて黙って立っている。それは、この煙突の避雷針が純金でできているかもしれないというのである。直径30センチメートル、長さ150センチメートルの大きさというから、もしそれが本当ならば大層な「宝物」である。そんな噂が伝えられた根拠は2つある。1つは、この避雷針がとりつけられる前、数日間、事務所の金庫室に保管され、不寝番が立っていたと伝えられている。もう1つは、半世紀もの間、亜硫酸ガスや風雨にさらされ、なみの金属ならとっくに腐食しているはずだ…というわけ。
残念ながら、当社には現在、この避雷針の材質に関する記録は残っていない。真相を確かめるため、この煙突に登頂を試みたこともあったが、危険なので頂上までは到達できなかった。
ロマンとミステリーに包まれたこの黄金伝説、大煙突の雄姿とともにいつまでも続いてほしいものである…。
コラムではこのように紹介されている。その真偽については、資料など残されておらず社内でも黄金伝説として語り継がれているのである。

大煙突へ登頂し避雷針を確認せよ!テレビ局が番組企画。煙突垂直登頂

月刊みやこわが町では黄金の避雷針伝説を過去数回掲載した。そんな時「煙突の避雷針の記事が全国紙に載った」という情報が入った。誰かが掘り起こしたのである。そしてそれを読んだという地元のテレビ局・テレビ岩手のスタッフが平成3年1月中旬に編集部へやって来た。
本誌の記事などを参考に「本当に避雷針が黄金でできているかどうか確認するため登頂したい」と言うのである。そしてこれを番組にし視聴率週間の目玉企画として取り上げたいとの事である。
登頂作戦は1月26日から始まった。最初は過去みやこわが町に簡単な図解で紹介した登頂方法を採用した。もちろん完璧な案ではなくそれ自体を採用というのも無茶な話である。結局、この案で登ろうとしたがロープが切れて失敗した。それで2度目は、煙突の外壁に電気ドリルでハーケンを打ち込んで、登頂することにした。この登頂に挑戦したのは当時37歳で、チョモランマをはじめ数々の山を経験した盛岡在住の上野幸人さんだった。
テレビ岩手では登頂予告のCMを流し始めた。宮古市民の視線を煙突に釘付けにする。会う人会う人が煙突の話をする。「寝ずの番をした人が2人いる」「避雷針はもう折れて今はない。探しに行ったが発見出来なかった」「オレも工事中に登ったことがある」などと、ほとんど信憑性がないものの人々は煙突に関心を寄せた。
1月の冷たい風に吹かれながら上野さんは登った。黙々とマイペースで、充電式ドリルで穴を作り、そこにハーケンを打ち込んでは上へ上と登る。その姿をテレビカメラが追う。その作業を見つめる関係者、大勢の市民らも固唾をのむ。何とも凄い冒険である。誰もこんな形で煙突に登るなど想像も出来なかった。
テレビ岩手は、2月4日と5日の「ニュースプラス1いわて」の特集番組で放送。この中で黄金の避雷針の謎が解明されるはずであった。
約10日間にわたって実施された登頂作戦、最終日の2月5日、上野さんは最上部まであと10メートル前後と迫っていた。しかし、上部付近はコンクリートの劣化も進み、さらには有害性の煙が染みついており、その臭いなどで作業は難行した。さらに電気ドリルの電池が切れてしまい、結局、登頂には失敗。避雷針は確認出来なかった。

黄金の避雷針は宮古の栄光だった

企業城下町では煙突は企業のシンボルであると同時にまちのシンボルにもなる。ラサ工業はその最盛期、権威と信用と地位の高い会社でもあった。東京に本社を持ち、宮古に昭和14年に進出して以来、常に新しい文化を持ち込み、スポーツ界でも活躍していた。従業員1500人、下請けも500人ほどいた。市の経済に大きく貢献し15%のシェアがあった。
しかし、オイルショック後から業績が悪化。業務を縮小しながらも昭和63年には製練工場が解体。今は小規模ながらも有価金属部門が稼働している。

何故「黄金の避雷針伝説」は生まれたのだろうか。

振り返れば黄金の避雷針はそんな権威のある企業であったがゆえに、それが黄金であってもおかしくない、という結論にもなる。つまり、単に高い煙突だからその噂が出たのではなく、このラサ工業だからこそ黄金の避雷針なのではないのだろうか。ラサ工業という、かつての権威あるシンボルである煙突の上にその姿を置き換えたのではないのだろうか。
避雷針は今なお、伝説としてのままである。結局、人々が求めた「黄金の避雷針」は、かつての宮古の栄光そのものだったと言えるのかも知れない。

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