鳥取春陽
- とっとりしゅんよう【分類・音楽家】
- 明治~昭和:明治33年~昭和7年(1900~1932)
「籠の鳥」で一世を風靡。さすらいの音楽家
大正から昭和時代、鳥取春陽は作詞、作曲、演奏、歌唱と全ての面の才能に恵まれた大衆音楽家だった。ヒット曲「籠の鳥」は大正11年(1922)にレコード化され、一世を風靡した。13年には帝国キネマが「籠の鳥」を映画化し、浅草では7週間の続映。当時、前例のない記録で、特に歌は児童が歌うことを禁止されるほど大流行した。
春陽こと本名・貫一は、明治33年(1900)12月16日、旧下閉伊郡刈屋村(現宮古市)の北山に父民五郎、母キクノの長男として生まれた。7歳で刈屋尋常小学校に入学し、家から小学校までの道のり約8キロをハーモニカを吹きながら通った。しかし少年時代、貫一は「こんな田舎で土を掘って一生を終えるのか。東京に行って一角の人間になろう」と、意を決していた。明治44年に鳥取家が出資していた製糸工場が倒産し、家の資産も失ったことも起因してか、高等科2年の秋、貫一は村から姿を消した。
その後1、2年の春陽の足どりは分かっていない。バイオリンを教える臨時の学校教師、郵便局のアルバイト、新聞配達など苦労しながら神田正則英語学校に通ったらしい。常宿にしていた江東区富川の木賃宿で演歌師たちと知り合い意気投合し、明治演歌の巨星といわれた添田亜蝉坊(そえたあぜんぼう)と、盟友となる作詞家の添田知道との出合いが春陽の行く道を決定づけた。春陽の音楽的才能が世に見い出されたのであった。春陽は数々の作曲をし「籠の鳥」が彼の声価を決定的にした。
春陽はやがて大阪へ居を移し、大阪のカフェで流行りだしていたジャズのリズムを演歌のメロディーにのせ「ストリートガール」などの新しい演歌を作っていた。このような春陽の試みが後の日本の「歌謡曲」へつながっていったのだが、そのことはあまり知られていない。
大正15年、春陽は一連の大ヒットによってコロンビアの子会社であるオリエントレコードの専属作曲家になった。専属料は150円。当時の帝大出身の初任給が45円ぐらいであるから、相当な額である。このような専属制という形式でレコード会社と契約した音楽家は春陽が最初らしい。新里地区の生涯学習センター玄翁館には、春陽のオリエントレコードとの契約書が所蔵されている。また名古屋のツルレコードでも吹き込みを行い、ジャズソングや流行歌を作曲した。
しかし、これからという働き盛りに春陽は結核を患い、昭和7年(1932)1月16日、31歳の若さで静かに眠りについた。翌年、追悼盤として発売されたレコード「思い直して頂戴な」で歌を歌ったのは淡谷のり子。そして片面は当時、新人だった古賀政男の「酒は泪か溜息か」だった。
出典:やんもうどの大地から(新里村)鳥取春陽伝