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髪長姫伝説

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目次

宮古の髪長姫伝説

髪長姫の伝説は尋常ではない頭髪の長さを誇る黒髪の姫を語った長沢地区の伝説だ。髪長姫はいつの時代か不明だが長沢村の長者の孫娘で生まれてから一度も切っていない美しい黒髪の女が都の高貴な人物に召しかかえられるという話だ。この髪長姫は自分の髪を桐箱に入れて歩き、あまりの長さのため整髪の際は松の大木に髪を掛けたという逸話があり、この話は柳田国男の『桃太郎の誕生』の中に宮古浜の伝説として掲載される。
異様なほど髪の長い女であった髪長姫の出生に関しては次の伝説が当てはめられている。時代は不明だが長沢村の長者の娘が三月三日に高浜村へ潮干狩りに行ったまま行方知れずとなる。三年後娘は家に戻るが身重になっていたという。その後娘は女児を生むがこの子供が生まれた時から髪が長かった髪長姫となる。この奇譚は長沢の髪長海女宮(かみながうんなんぐう)の神社縁起として語られたもので、娘が行方知れずとなった高浜村にも海女(うんなん)神社という類似した信仰媒体があることから両者は同時代に伝説がセットされた神社であろう。

似た逸話は全国に散らばっている

髪長姫伝説の元祖は熊野信仰が盛んな和歌山県御坊市に伝わるもので次のような伝説がある。その昔、九海士(くあま)という海辺の村に海女と漁師の夫婦がいた。夫婦は40を過ぎていたが子宝に恵まれず毎日八幡宮に祈ったいたところ女児に恵まれた。夫婦は八幡宮のご加護と思い娘を「宮(みや)」と名付けたという。しかしこの宮という娘は、生まれてから何年経っても頭髪が生えてこない無毛の女だった。そんなある年、海底から怪しい光りが発して海は荒れ漁ができなくなった。この時海女である娘の母が海中に潜り、沈んでいた黄金仏を拾い上げる。すると海は穏やかになり黄金仏のご加護で無毛の娘に美しい黒髪が生える。この髪を鳥がくわえて都に渡り高貴な人がその髪の主を捜索させ娘は宮中の人となるというものだ。

伝説を対比してみる

長沢の髪長姫も同等に整髪の際に抜け落ちた長い髪を渡り鳥がくわえて都へ向かいその髪が巣にかかっていたのを高貴な人が見つけ髪の主を家来たちに捜索させるというものだ。しかしこの両者の伝説は美しい女を都の高官が得るという類似伝説というだけで片付けられない部分が存在している。
御坊市に伝わる伝説では髪長姫を都へ迎え養女としたのは藤原朝臣不比等(ふじわらのあそみふみと)であり、不比等は髪長姫を宮中に送り、姫は文武天皇の目に止まり后となって名を「宮子(みやこ、または、きゅうし)」と改め後の聖武天皇の母となるというもので、身分の低い海女の娘でありながら黒髪の姫となり宮中へあがったのもあの黄金仏のおかげだと、紀州道成寺を建立したというのだ。
長沢にある髪長海女宮、高浜の海女神社も「海女」という文字がありこれを「うんなん」と読ませているが、実際は髪長姫の伝説の元祖である和歌山県にあったとされる「九海士(くあま)」の地名を真似たものだろう。ちなみに「うんなん」は「雲南」であり雷を意味するもので、海女を「うんなん」と読ませる時代よりはるかに古い時代から存在する古語だ。九海士の地名の由来は昔、百済の国からやってきた9人の海女が住み着いたというもので「九海士(九海女)」となったという。
神隠しに遭って数年後懐妊して帰ってくるという、起承転結の「起」部分が消失した発端に、父親も不明のまま出産した女児が髪長姫というマレ人であり、のち都へ連れてゆかれるというこのストーリーはまさに和歌山の髪長姫をアレンジしたもので、「宮古」という地名にちなんで文武天皇の皇后であり、聖武天皇のを生んだ藤原朝臣宮子(ふじわらのあそみみやこ・きゅうし)の名をかけて、宮古の地に髪長姫を強引にセッティングした伝説だ。くわえて髪長姫を奉る神社に「宮」の字を入れて藤原朝臣宮子を匂わせる演出までされている。
おそらくこの伝説をこの地にセットした人物は紀州熊野の山伏であり南紀方面の歴史や伝説に詳しい人物だったろう。また長沢の髪長姫出生の逸話は遠野物語などで語られる神隠しなどにも類似した側面があり、様々な地方で語られた数種類の伝説が組み合わされた物語としてセットされたのではないだろうか。

伝説の正体とは

伝説とは「伝え語られてきた一説」だ。これはあくまでも仮説であり史実ではない。しかし「火のない所に煙は云々…」の例えの如く怪しい場所にはそれなりの怪しい伝説が語りつがれている。そんな伝説には昔から信憑性を演出するための舞台装置がセットされていて龍神、天神、観音、阿弥陀にはじまり、平家や源氏、黄金の鳥や白い蛇などが登場し、某旧家に伝わる古文書の一節や没落し様々な血筋に転売された某家の氏神の棟札などにあたかも事実であったかの如く書かれていたりする。
では人々を楽しませ、これからも語られてゆくであろう伝説はいつ誰がセットしたのだろうか?という疑問が発生する。伝説を作り出す人の条件はその人物が人々を魅了する説得力を持ち、同時に読み書きと歴史に詳しい博学の人物であり、発端をぼかすためにも一箇所に留まらない流れ者である必要がある。そんな生業を持って神や仏を売りながら諸国を流れ歩いていたのが山伏たちであった。彼らは自らの信仰や布教のため流れ歩く宗教者たちで、熊野や羽黒の修験者や比丘尼であったり、高野聖、六十六部などの僧形の宗教者だったりした。彼らが通過した村や町にはその足跡として神社建立に関係した逸話が創作され、それらは長い時を経て時限爆弾のように伝説や昔話として語り継がれることになる。その創作の中には奥州を制圧した坂上田村麻呂や八幡太郎義家、追われて落人となった安倍貞任、源義経から、オシラ神にまつわる各種長者伝説、弘法大師、龍宮伝説などさまざまな分野で奇跡や神懸かりを語った。また、逆に庶民たちもある程度家が栄えてくると先祖や出生を語るうえで、装飾した逸話が欲しかったのも事実で、旧家同士の婚礼等の場合先祖の知名度や代数は重要な判断基準でもあった。そのような背景を踏まえて家に招き入れた山伏が語る遠い国の話がいつの間にかその家の先祖の話に置き換えられ、その代償に山伏は神仏を勧請し小祠などを建立することにより活動エリアであるカスミを広げるのであった。

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