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駅前通りの思い出

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駅前で食堂を営んでいた黒田賢吉氏が語った思い出

私が駅前に店を持ち、開店したのは昭和9年11月6日でこの日は山田線宮古駅が完成し、その開通式が行われた記念の日だった。

私にとっては、忘れることのできない二重の喜びの日である。保健所のない時代だったので、黒田町角の派出所で菊地巡査に頼み飲食店営業許可を鉄道開通記念日に開店できるよう間に合わせてもらった。宮古駅前通りと言っても宮古駅がポツンと立ち、あとは私の家とほかに一、二軒しか建たず町並になってはいなかった。開通式が行われたのは向かい側の篠田の地所で空地だった。紅白の幕を張り巡らして式場を設営した。

山田線は猿でも乗せるのか、などと冷やかされただけに開通式は大変な騒ぎだった。今でも忘れられないのは宮古駅開通で、丸通を誰がやるかと言う事で金持ちの篠田家か、山田線功労者の菊長家か、どちらなのかと巷の噂話に花を咲かせたものである。

私が駅前に店を持つ前は末広町が私の店だった。現在の小成青果菊丹になっている建物なのだが、あれを建てた時は田圃の中に一本末広町の道路ができたばかりで、私の家がポツリと道の真ん中に建ったものである。事情があってそこを立ち退き宮古駅開通を機にここの地所を借りて店を出したのである。

当時は周囲の町並が、どんな順序で駅前通りになったか、よく分からないが、ともあれ私の家の側には、南寄りに沢田屋、丸通、三社駅前事務所、須藤カメラ、茜屋などが、北寄りには長男の黒田時計、増坂書店、駅前郵便局、浪岡商店、乙戸商店などが、さらに向かい側には住吉旅館、蛇の目本店、ランタン、三上酒店、上田畳店、きよみ、モリエ、八幡館などが軒を並べ宮古市の玄関口として立派な商店街をつくりあげている。

 思えば、私は末広町でも駅前通りでも、町のはじめに住みつき町をつくった一人でもある。顧みて、昔日の感に耐えないものがある。面白いのは地主から譲り受けた私の土地は、狭いのに地割番地がふたつに分かれていることである。店舗の方は八幡前であり、裏の方は八幡沖と屋敷の中がふたつの地割にまたがっている。

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