関川喜佐雄
- せきかわきさお【分類・画家】
- 明治~平成:大正1年~平成14年(1912~2002)
50歳で単身渡仏。洋画家
宮古出身の洋画家・故・関川喜佐雄は明治45年(1912)宮古市老木に農家の末っ子として生まれた。子供の頃から絵に対して心を惹かれていたが、当時の世相は大学を出ても仕事が見つからないような経済状況だったので画家への夢は心に秘め、早稲田大学通信科修業、政経学部校外科を卒業し、昭和9年日本洋服専門学校へ進み、服飾デザイナーとしての道を歩む。
専門学校卒業後、宮古の仕立屋で修行したのち昭和7年頃、新川町に関川洋服店を独立開業した。当時、背広は現在のように普段着ではなく礼服同様、特殊な服であったが独特の感性と斬新なデザインで仕立てる関川氏の背広は人気を博した。そんな氏の技術を学ぼうと市内外から弟子が集まり、最大で22人の弟子がいたという。戦後、服装が完全に洋風化してゆく中で宮古を本店に釜石、盛岡、東京へ支店を出店、自らも各支店を回り多忙な日々を過ごす。しかし、職人、デザイナー、営業マンとして手腕を振るい、数々の役職、宮古市会議員等も歴任したが、子供の頃に思い描いた画家への夢は捨てておらず、忙しい合間を縫って仕事を終えてから絵筆を握っていた。
50歳までは生活のための人生。それ以後は自分の夢を叶えるための人生。と決めていた氏は昭和37年、50歳で単身渡仏、パリで今までの人生とはまったく違う画家としての生活をはじめた。
パリを選んだのは少年時代に夢見たフランス留学でありそれまでの人生にケジメをつけるための留学であったと氏は青少年に贈る言葉『わが人生論』岩手編(文教図書出版)に執筆した自伝に記している。
2年の留学で巨匠たちのアトリエを訪問し、画家・平賀亀祐に師事、人より遅く入った絵の道に対して必死に勉強を重ね、昭和45年フランスの官展ル・サロンに3点入選、ブロンズ賞筆頭で入賞をはたし本格的に画家として歩みはじめる。晩年は第三の人生として川崎麻生区にアトリエを構え、冬はハワイで過ごす暮らしをしながら創作活動を続け多くの大作を残した。少年時代の夢に向かい、それを諦めず、最終的にその夢を叶えた努力家でもある。平成14年8月他界、90歳であった。