関口松太郎
- せきぐちまつたろう【分類・政治】
- 江戸~昭和:文久2年~昭和12年(1862~1937)
万里の長城といわれる大防波堤を築いた田老再建の祖
関口松太郎は、昭和8年(1933)3月3日に発生した三陸大津波の時、田老村の村長であった。その津波で村は
壊滅的な打撃を受けたが、関口は復旧のために不眠不休の活躍をし、その後は村を津波から守ることに全力を尽くした。津波太郎の異名を持つほど、その度に被害を蒙ってきた田老のまちは、関口の大英断で大防波堤が着工された。津波を万里の長城のような大防波堤で守るという考えは当時、常識では考えられなかったが、今日の住民の生活を守っている。
関口は宮古花輪村に文久2年(1862)10月2日に生まれた。少年期から和漢学を修め、その成績は優秀で異彩を放ったと伝えられる。21歳で長沢村の役場に書記として勤務。兵役のあと東閉伊郡、東中北閉伊郡、下閉伊郡の役場等を経て重茂村長、宮古町名誉職町長にも明治41年に当選し、5期勤めた。宮古町長時代、黒森山を町財産にし学校建築や庁舎建築の財源として役立てた。田老村長になったのは大正14年(1925)3月、62歳の時だった。75歳で亡くなるまで12年間、田老村のために尽くした。
三陸大津波は田老から911人の命を奪い、66世帯を一家全滅にし、505戸の家、909隻の漁船を流出させた。田老の犠牲者は全犠牲者3064人の約3割にもなった。
関口はすぐに臨時議会を開催。秋までに災害復旧工事計画、生産施設援助による施設計画を立てた。田老は過去何度も津波に襲われているので、他の場所に移転したらという案が真剣に考えられていた。そこに津波を防ぐ防波堤を建設するという考えは非常識な案に思われたが「漁師が海を離れてどうするんだ」と、終始一貫してこの線を貫いた。そして国や県に働きかけたが相手にされず、無謀だと思われる村費を計上し単独で、翌年の9年(1934)に防波堤建設に着手した。
この計画による復興した田老が現在へと続いている。防波堤の建設、区画整理などで、区画整理では西向き道路はみんな山に向け、十字路の角も取った。すべて避難のための配慮だ。
関口は昭和12年(1937)11月、村役場で執務中に倒れ帰らぬ人となった。関口の意思は代々の首長に引き継がれ、後に大防波堤は完成した。役場前には彼の胸像が建立されている。昭和10年、関口の行政手腕を見ていた田老の人たちが寄付を集めて生きているうちに建立したのだった。
出典:ふるさと田老人物伝(田老町)・関口松太郎翁の遺徳をしのぶ・岩手の先人