閉伊氏
中世の閉伊を治めた謎の豪族
宮古の歴史の中でも奈良、平安から鎌倉初期にかけての部分は資料も少なくかなり薄い部分だ。当時、この地方の人々は縄文晩期から弥生を経て引き継いできた集落に暮らしていたと考えられ、製鉄や鍛冶文化も発達させながら奈良、平安時代を迎えた。しかしその後の鎌倉時代に入ると人々の暮らしは一変し、稲作中心の農業が主体となる。集落は縄文期から引き継いできた丘陵地から稲作にとって重要な水源確保が可能な沢や川のある土地へと移動してゆく。稲作が発達する背景には統治者が領民から搾取する税金としての年貢が発生したからだ。倉初期に閉伊地方へ侵入し集落や農業のスタイルを変えさせた統治者であり侵略者こそ「閉伊氏」ではなかったのか。
縄文移行型の集落から中央政権と直結した統治へ
宮古の奈良・平安時代は縄文の頃から集落として機能していた場所がそのまま村として機能し、昆布などの海産物を媒介して中央政権とのつながりもあったと考えられる。加えて宮古下閉伊からはエミシ特有の蕨手刀などの鉄器や精錬跡も多数出土していることから当時から鉄と海産物で人々を統治し代表となる人物がいたと考えるのが自然だ。
奈良時代の霊亀元年(715)閉伊の地に存在したとされる沿岸部のエミシの長・須賀君古麻比留(すかのきみこまひる)という人が先祖代々朝廷に昆布を献上しており、海産物集荷において遠隔地なので不便だと申し出て町を作ることを許され「閉村(閇村・へむら)」を作ったと伝えられている。この閉村という町が現在のどこなのかは諸説あり確定できないが、同時期の墳墓である長根遺跡から当時の貨幣・和同開珎(わどうかいちん)、その頃日本では鋳造していなかった錫を使った装飾品や直刀などが出土している。このような奈良時代の古墳式の墓が宮古にあることから須賀君古麻比留が昆布集積のため作った町「閉村」とは宮古だったのではないかと考えられる。
時代が下り平安末期から鎌倉時代にはいると製鉄や精錬を主に縄文的生活形態が主だった閉伊の集落に転機がくる。それは定住型稲作中心農業への移行だった。このためそれまでの狩猟焼畑の生活スタイルが排除され、稲作に適した土地への移動による旧集落の崩壊が起こったと考えられる。
その頃の集落は小高い丘陵地にあり、稲作は行っていたが稲作に最も必要な豊富な水源に恵まれる環境ではなかった。そのため集落が丘陵地から田圃を作りやすい沢のある土地へと移動した。これはこの地方に中央政権の手が入り年貢や納税として大量の米が求められ、結果として稲作中心の農業へと転換が起こったと考えられる。このような状況はそれまで中央から隔離されていた地方で全国的に起こった農業の転機でもあり、縄文的生活を捨てきれない者たちは集落や集団から離れた山へと追いやられた。
では人々が稲作型農業へと変化せざるを得なかった理由は何であったのか? それはこの土地に中央政権と直結した支配者、あるいはそれを代行する者が住み着いたからではないだろうか。支配者がその土地で存続してゆくためには領民から搾取する税金が必要であり、それが「統治する」という意味につながる。鎌倉幕府成立を期に閉伊地方に乗り込み、かつてない武力で閉伊を支配した者、それが「閉伊氏」と考えればいいのではないだろうか。
創生期は伝説として語られる
閉伊氏と呼ばれる豪族の発生やその詳細は伝説や神社縁起、昔話などではまことしやかに語られているが、どこまでが事実でどこからが後世の創作なのかはっきりしないのが現状だ。ただ鎌倉時代中期になると鎌倉幕府から拝領した採決状が古文書(後述)として存在し、その文面に閉伊地方を統治する地頭として閉伊氏の名が登場する。それに対し伝説や口伝、民話などで語られる宮古の成り立ちと根城にまつわる伝説で語られる閉伊氏の物語は次の通りだ。
閉伊氏を取り巻く伝説
初代・閉伊氏とされる閉伊頼基は清和源氏の流れを汲み、弓の名手であり保元の乱に登場する鎮西八郎為朝(源為朝)の子で「保元の乱」で敗れ伊豆大島へ流刑となった保元1年(1156)の翌年大島で為朝の三男「為頼」として生まれたとされる。 謀反を起こした為朝が嘉応2年(1170)朝廷軍に追われ八丈島にて自害する際、14歳であった三男・為頼は為朝の家臣・近能左七郎親良(きんのうさしちろうちかよし)に連れられて戦乱の大島を脱出、近江の国へたどり着き、近江源氏・佐々木四郎高綱の元へ引き取られた。後、日本中の同族同士が戦った「治承・寿永の乱」が終わり、奥州藤原氏を討ち征夷大将軍となった源頼朝が鎌倉幕府を開く。頼朝は佐々木四郎高綱の庇護で近江に暮らしていた為頼を鎌倉へ呼び審議後死罪を申しつけた。それに対し同行していた佐々木四郎高綱をはじめ家臣たちが意見を申し入れた結果、為頼に対し異例とも言える無罪放免を言い渡し、加えて気仙と閉伊の領地を与え北の防備と牧野経営を命令したという。 この説は『奥南落穂集』『奥南旧指録・深秘抄』『参考諸家家系図・南部藩』『祐清私記』などの江戸中期頃に書かれた歴史書、あるいは古伝書に紹介されている閉伊氏の成り立ちをまとめたものだ。この説では弓の名手で保元の乱に登場した源為朝を父とし、流刑された大島から脱出し近江源氏の佐々木四郎高綱の元に身を寄せたことになっているが、筋立てがあまりにも歴史上の有名人仕立てになっていることや、佐々木四郎高綱の元へ身を寄せた閉伊氏(為頼)は年代から想定すると14歳であり、この時、近江の佐々木四郎高綱もまだ若干10歳ということになる。これではいくら源氏の累代の血をひく者であれ高綱が養子として引き取ったというのは無謀な設定だ。 閉伊氏創生期にまつわる歴史の中にこれらの人物設定が盛り込まれた背景には、鎌倉時代の閉伊地方が日本の歴史の中でほとんど影響していないことによる物足りなさであり、坂上田村麻呂、源義家こと八幡太郎義家同様、歴史上の有名人を盛り込んだ伝説や口伝をもとに江戸期の作家が組み立てた創作ではなかったかと思われる。
源為朝は保元の乱で伊豆に流刑となる
源為朝(みなもとのためとも1139~1170)は平安時代末期の源氏の武将である。源為義の八男、母は摂津国の遊女。通称は鎮西八郎。弓の名手と伝えられる。13歳の時父に勘当されて九州に追放される。後に肥後の阿蘇氏の婿となり、鎮西(九州)の豪族たちを討ち破った。朝廷は逮捕命令を出すが為朝がこれに従わなかったため父為義が失脚してしまう。これを聞き為朝は京都に戻る。 保元1年(1156)崇徳上皇と後白河天皇が対立し上皇側に天皇側が奇襲を仕掛けた事件である保元の乱(ほうげんのらん)では父に従って崇徳上皇方に属した。為朝は大いに勇戦し得意の弓で天皇方を翻弄したが天皇方が白河北殿に火をかけたため上皇方は敗れた。 為朝は逃亡するが捕らえられ武勇を惜しまれて斬首を免れる。伊豆大島に流刑された為朝は、今後強弓を射ることができないようにされが、その傷が癒える頃になると、伊豆諸島の豪族を束ね朝廷に反抗するようになる。これに対し朝廷側は伊豆に工藤茂光を送り為朝を追討させた。為朝は八丈島で自害している。
佐々木高綱は近江国佐々木庄の豪族
佐々木高綱(ささきたかつな1160-1214)年12月8日は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。佐々木四郎高綱とも称した。平家物語や源平盛衰記にその活躍が描かれ、歌舞伎の鎌倉三代記にも登場する鎌倉期の武士だ。近江国の佐々木の庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の四男として生まれ、京に住んでいたとされる。 治承4年(1180)に源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、兄弟の定綱、経高、盛綱と共にそれに加わる。宇治川の戦いでは梶原景季と先陣を争い景季が馬の腹帯を締め直す間に先陣を切る。 文治3年(1186)に長門、備前の守護へと任ぜられる。建久6年(1195)に家督を子の重綱に譲り出家し、心瀧と称し諸国を巡回したと伝えられ各地には高綱を由緒とする寺社や宝物が多く残る。
伝説による閉伊頼基とその周辺
伝説によると、閉伊頼基は佐々木四郎高綱の娘、音羽姫を妻とし、父為朝の家臣であった近能左七郎近良、太田嶋源五太忠連、猪狩右馬之丞諸深、広沢兵馬之丞忠季、安蘇権太郎重休、明石監物宗晴、石関兵庫勝時らを従えていたとされ、重鎮であった家臣等は閉伊頼基の死後、殉死したと伝えられる。
閉伊頼基が死んだのは鎌倉時代初期の承久2年(1220)で頼基の享年は63歳とされる。父の代から頼基に仕えた7人の老家臣たちは頼基の後を追って殉死したとされるが、当時とすれば相当の年齢に達している感があり、太田嶋源五太忠連は松山の舘で自害したと伝承があるが、大部分が主を失い衰弱して果てたとも考えられる。また、頼基が没した時期に閉伊氏は山田船越付近に居を構えていた頃ではないかとも推測され、閉伊氏の初代だった閉伊頼基という人物は宮古へは至っていない。従って当主の死と家臣の殉死に関係してその時代に松山舘や華厳院は建立されておらず引用には無理があり、これらを交えた逸話が後の創作であることがわかる。
主を追って殉死したとされる閉伊氏の家臣7名はそれぞれ閉伊の地を守る明神として各所の神社の祭神となって現在に伝わっており、法名と神社は別表の通りだ。
- 閉伊七明神として祀られた家臣
- 近能左七郎親良(こんのうさしちろうちかより) 義山劒誉居士(ぎざんけんよいんし) 区界明神 川井村
- 太田嶋源五太忠連(おおたじまげんごただつら) 雪山劒光信士(せつざんけんこうしんし) 松山明神 松山
- 猪狩右馬之丞諸深(いかりうまのじょうもろふか) 冷姓劒風信士(れいぜいけんふうしんし) 川内明神 川井村
- 広沢兵馬之丞忠季(ひろさわへいまのじょうただすえ) 実 劒忠信士(じっそうけんちゅうしんし) 老木明神 老木
- 安蘇権太郎重休(あそごんたろうしげやす) 法雪劒風信士(ほうせつけんふうしんし) 川井明神 川井村
- 明石監物宗晴(あかしけんもつむねはる) 了真劒清信士(りょうしんけんせいしんし) 小国明神 川井村
- 石関兵庫勝時(いしぜきひょうごかつとき) 枯峯劒了信士(こほうけんりょうしんし) 川崎明神 刈屋
花原市の華厳院と閉伊氏の関係
花原市(けばらいち)地区にある洞沢山(どうたくさん)華厳院の由来・沿革を見ると、この寺は元々天台宗であり、開基は閉伊頼基の父、源為朝菩提のため建立されたとしている。言い伝えによると華厳院の名は源為朝の法号「華厳院殿鎮西府大守特剣法空大貴士(けごんいんちんぜいふおおのかみとくけんほうくうだいきし)」の頭文字にある「華厳院」を取ったものとされ、建立当初は現在の閉伊川を挟んで対岸の閉伊氏の居舘であった根城舘の「あみだがほら」と呼ばれた場所にあったいう。(『いわてのお寺さん』)正確な建立時代は不明だが鎌倉中期には閉伊氏が祀った庵寺のようなものがあったと考えられている。
創建から約300年後の延徳1年(1489)に閉伊田鎖氏の手により遠州掛川(現・静岡県)から当寺四世となる劫外長現(こうがいちょうげん)禅師を勧請し現在の花原市に再建し、同時に天台宗から曹洞宗へ改宗している。中世末期、南部氏により閉伊氏以後の豪族・田久佐利氏(田鎖氏)が亡び、田鎖、老木、根城は南部氏の家臣楢山氏の知行地となり現在へ至る。
華厳院の寺宝として仏像や書に混じり為朝所有の茶碗(伝・源氏小半と称する)があるとされる。また牛伏地区に伝わる伝承芸能・牛伏剣舞は為朝をはじめ平安時代末期の1180~1185年にかけての6年間にわたる大規模な内乱である治承・寿永の乱で死んでいった多くの同胞を弔うため舞われたものとされ、毎年お盆の16日には閉伊氏由来の華厳院で舞うのが習わしとなっている。
田鎖氏と閉伊氏は同族か?
当初、閉伊の根城に居舘を築きこの地方の統治者となったとされる閉伊氏だが、代替わりしてゆくうち領地分配についての跡目争いなどが勃発し宗家と分家の関係はぎくしゃくしてゆく。また、当時の習いとしていつかは攻め込まれることを予測して要害の地に建設した根城の舘だったが、鎌倉、南北朝と閉伊の地では大規模な戦乱もなく山城としての舘もさほど機能しなかった。加えて、当初土着した根城の地は閉伊川の氾濫による洪水被害も頻発したと考えられ、閉伊氏は根城から老木へそして田鎖へと居舘を移したと考えても不思議ではない。
これに対し田鎖氏は鎮西八郎の四男・為家から出ており閉伊氏とは別系列の一族だとする推論もある。これによると為家は八丈島で自害した鎮西八郎の四男であると同時に閉伊頼基の弟ということになり居舘は大槌だったとされる。また、この為家の子孫である田鎖氏(田久佐利)は華厳院改修と移転にも関与したという。しかしながらその時代は延徳3年(1491)であり、南部信時が閉伊へ侵攻し、田鎖氏を攻め滅ぼした年でもあり、このような不穏な年に寺の移転や改修があったとは思われない。この戦で南部氏は一説によると攻め滅ぼした閉伊の遺児に僅かの土地を与え田鎖氏として暮らすことを許したとも伝えているが、一族皆殺でその血筋を絶つのがこの時代の戦であり、後の世に不穏な思惑が残るような温情などがあったとするのは疑問が残る。
閉伊氏と田鎖氏の断定と住み分けは先人の郷土史家が多くの推論を延べてきたが未だ謎は解けていない。だか鎌倉初期から中期に隆盛期を迎えた閉伊氏はのちに分裂し閉伊川を隔てて宗家と分家が対立したのは公的文書もあることから事実であろうし、宗家である閉伊氏は南北朝時代を経て室町期には交易と産業発展、あるいは閉伊川の洪水などの災害のため根城から東へ移動し、後に田鎖氏を名乗ったとも考えられている。
分裂する閉伊氏と鎌倉幕府の採決状
閉伊地方に対して鎌倉幕府が発行した公的文書でもある北条高時の採決状は正応1年(1288)のもので、閉伊文書として貴重な記録となっている。これは閉伊氏が宗家と分家で相続争いを起こしこれに対して幕府が採決を下した決定的証拠でもある。閉伊氏頭首・閉伊三郎左衛門光員(みつつら) は自分の死後に相続争いが起こることを懸念し領地分配を書き付けとして残し2年後没した。光員の死後、宗家・十郎左衛門光頼は父の譲り状をかざして領地の独り占めを図るが、これに対し笠間・鍬ヶ崎の地を分け与えられていた分家・余一・員連(よいち・かずつら)は宗家の書状は偽物であるとし幕府に申し立てた。後、約30年後にその採決が下り書状は本物であると採決され、嫡男光頼は閉伊川を境にして南側を所領として認められ、員連に対しても遺言のまま笠間、鍬ヶ崎の地頭として認められている。しかしこの事件以来、閉伊氏は閉伊川をはさんで宗家と分家が対立することになる。
そして閉伊は南部の支配へ…南部家でも同族が戦う九戸政実の乱
九戸政実(1536~1591)は南部氏の一族で政実の代に勢力を大幅に広げ南部氏宗家に匹敵する勢力を築いた。その立場は南部家の家臣であったが、その力は自立した大名そのものであった。天正10年(1582)南部晴政が病死すると南部家は晴政の養子・信直と実子・晴継の家督争いが始まる。結果的に実子の晴継が継いだが父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺(病死)されてしまう。その後政実は宗家の信直に対して自分こそが南部家の当主であると公然と自称するようになってゆき、天正19年(1591)ついには南部宗家への正月参賀を拒絶し同年3月に挙兵する。『千徳興廃実記』によればこの報を聞いた千徳城主・一戸彦次郎実冨(さねとみ)は、千徳城を息子の孫三郎に預け九戸氏の軍勢に加わるため一戸城(青森県黒石市)に入城したという。また、この時閉伊の地へ入り南部信直軍に協力するよう諸舘の豪族を説得したのが後の南部家家老で江戸初期~中期まで千徳を知行することになる桜庭安房守(さくらばあわのかみ)だった。結果的には桜庭血縁の田代氏を除き閉伊の豪族たちは日和見を決め込み、逆に千徳氏は敵として九戸氏へ協力することになる。
元来九戸氏は南部家の精鋭であり、更に同族同士の戦では勝利しても恩賞はないと考える家臣がほとんどで南部信直は苦戦した。そして最終的には自力での討伐を断念、豊臣秀吉に使者を送り九戸氏討伐を要請する。これにより豊臣秀次を総大将とした6万の討伐軍が奥州への進軍を開始た。九戸氏の挙兵から半年後の同年9月、秀吉軍率いる討伐軍は一戸城を包囲、数日後政実らは降伏し、女子供を含む九戸一族は斬殺され九戸氏は滅亡した。
諸城破却令
閉伊川をはさんで対峙した田鎖、千徳の両雄は南部氏に従うしかなかった
閉伊川上流から、刈屋川、小国川周辺まで勢力を拡大し血族で結ばれた閉伊氏、室町時代に突如として名を顕し閉伊の侍大将とまで呼ばれた一戸千徳氏…。両雄は閉伊川をはさみ対峙したまま直接的に争うことはなかった。しかし戦国の乱世が統一された安土桃山時代末期になり豊臣秀吉の時代になり情勢は急転した。天正18年(1590)奥州仕置のため北上する秀吉から、領地受諾の御朱印を許された南部氏が奥州を統治することになったのだった。それまで臨戦態勢のまま均衡を保っていた両豪族にとって寝耳に水の決定だった。そんな南部氏の横暴に異論を唱え反旗を翻したのが九戸氏だった。しかし九戸氏は南部・秀吉連合軍によって滅亡、この動乱に荷担した黒石・浅瀬石城主で同時に千徳城主でもあった一戸千徳政氏も黒石で討ち死にした。千徳城に留守居として残っていた一戸孫三郎(異論、諸説あり)、情勢の成り行きを見守っていた佐々木十郎左衛門(田鎖氏)らは圧倒的な戦力の秀吉軍を盾にした南部氏に従う他道は残されていなかった。 天正20年(1592)秀吉は朝鮮へ侵攻するため九州名護屋に日本中から全軍を集めた。これが文禄・慶長の役で文禄元年(1592)から慶長3年(1598)まで続いた戦だった。この中には御朱印を得た南部氏をはじめ南部氏の家臣として従軍に加わった田鎖氏、千徳氏もいた。彼らは約1年半に及んだ朝鮮戦役のノルマを果たし田鎖氏、千徳氏は故郷である閉伊を目指したのだった。 しかし秀吉の名護屋招集にはもうひとの別なもくろみが含まれていた。それは従軍のため主がいない間、戦力手薄となった諸舘や柵、城をことごとく破壊することだった。これは乱世が続いた戦国時代を生き抜いてきた各地の豪族たちを新たな制度で家臣として統一するための策であり、今後豪族たちが徒党を組んで反乱や謀反を起こさないようにするための戦力の剥奪でもあった。この策が「諸城破却令」であり、南部氏は藩公自らが各地の豪族を引き連れて名護屋入りし、その数日後に南部藩残軍に各地の舘や城を破却させた。このことは文書として残され閉伊地方では千徳氏、田鎖氏の舘が対象となっている。 千徳城、田鎖城(舘)破却のため周辺豪族に命じて直接閉伊に入り陣頭指揮を取ったのが南部藩家臣・桜庭氏だった。主のいない千徳城には千徳次郎善勝他数十人の家臣しかおらず、刈屋氏、和井内氏、小笠原氏などに取り囲まれた要害として名高い千徳城はあっけなく陥落した。 はるばる名護屋から閉伊へ戻ったのは田鎖氏のみであった。千徳氏は田鎖氏と共に唐入(朝鮮出兵)したことは文書として残るが、以後一戸千徳氏の名は歴史から消えてしまう。これが戦死や病死だったのか?また帰路で暗殺されたかは謎のままだ。千徳氏滅亡後、千徳をはじめ閉伊を統治したのは千徳氏を討った桜庭氏だ。田鎖氏は南部藩家臣として低く構え江戸時代に入り代替わりしてゆくのだった。
閉伊川沿いの諸舘
鎌倉初期に閉伊に入った源氏系一族は代替わりしながら完全に土着、幕府が倒れ南北朝期に入ると根城に山城を築き足利軍の北上に備えた。しかしその不安は現実とならぬまま後醍醐天皇失脚で、閉伊の地は戦乱に巻き込まれることなく室町時代を迎えた。閉伊氏は根城の舘を捨て老木から田鎖へ移動すると、周辺豪族を攻めながら閉伊氏宗家・田鎖氏を名乗る。そして戦いで得た領地に縁者を送り込みながら閉伊川流域を支配する地方豪族へと成長してゆく。ここでは閉伊川支流の刈屋川、小国川から閉伊川中流域にあったとされる閉伊の諸舘を紹介する。
蟇目舘
蟇目舘は北の二又沢と西の飛の沢との間に伸びた尾根の先端にあり小規模の舘跡だ。舘主は蟇目氏とされるが資料も少なく詳細は不明だ。ただ藩政時代になってから田鎖氏の縁者が蟇目氏を名乗りこの地の地頭となっている。蟇目舘の向かいにある八坂神社の社伝によればこの神社は室町の頃、天台宗の長福寺という寺で同時期に花原市にあった華厳院とも何らかの関係がありそうだ。したがって室町期にはすでにこの地には土豪ありは田鎖氏なりの配下が置かれ周辺開発にあたっていたと考えられる。
鍋倉舘
鍋倉舘は茂市氏の砦で刈屋川をはさんで東側に聳える俗称・鍋倉山の南側尾根先端にあった。東側は閉伊川が蛇行し西は刈屋川でどちら側も急傾斜であり要害の舘になっている。茂市氏は閉伊氏の分家だがいつの時代に分立したかは不明。戦国末期、南部の桜庭氏は田鎖氏討伐のため川井と刈屋川周辺の土豪を招集したが茂市氏はそれに従わす、逆に事態を田鎖氏に知らせ自らは鍋倉の砦に立てこもった。 舘は桜庭氏に荷担した刈屋氏に囲まれ火を放たれたが田鎖軍が駆けつけ刈屋軍を駆逐したという。その後茂市氏は岩崎合戦に従軍、藩政時代には桜 庭氏と血縁となる。
刈屋舘
刈屋舘は刈屋川の支流・倉の沢の北に伸びる尾根の先端上部に築かれた。舘主は刈屋氏とされ川嵜明神に祀られる閉伊氏家臣・石関兵庫勝時を祖とするという。刈屋舘の先端には高昌院がその寺歴の中に刈屋氏の祖は田鎖城主・丹波守朝政(ともまさ)の二男とあり先代の追善供養のため高松院(のち変名)を建立したとある。しかし、刈屋氏は戦国の時代になると和井内氏を攻め押角峠を経て岩泉の袰綿氏をも攻めたが結局両軍に挟まれ蟇目氏を頼って蟇目に逃れたという。『東奥古伝』によれば刈屋氏は松山の白根氏とも関連があったとされるが白根氏が千徳・田鎖両軍に攻め込まれた際援軍を送れなかったとしている。
和井内舘
和井内舘は刈屋川に流れ込む安庭の沢の南側尾根上部に築かれたもので現在は八幡神社が祀られる。舘主は和井内氏で舘の高さや四方の急傾斜等の要害などからこの砦が築かれた時代には周辺土豪との熾烈な戦いがあったことが伺える。和井内氏は閉伊氏を祖とするが戦国期には袰綿氏と共闘して刈屋氏を討ち、伊達氏の援護で蜂起した和賀氏の残党を討った南部氏の「岩崎御出陣」に馳せ参じた記録がある。『東奥古伝』は「和井内舘、誠に高山也、今も石垣が残る…」と記載されることから江戸末期までは遺構が残されていたものと考えられる。
腹帯舘
腹帯舘は閉伊川が南北に大きく湾曲している部分に伸びた尾根の先端上部にあったという。現在は中腹に八幡神社が祀られる。舘主は腹帯氏でその祖は初代閉伊氏発端の説話と関係が深い佐々木四郎高綱の一族だったと伝えられている。それによると一族は僅かな郎党を引き連れ閉伊に流れたが党首の妻が妊娠しこの地で着帯の慶事を行ったという。佐々木氏はやがてこの地に舘を築き土着したという。また、腹帯氏は松山の大久保氏と血縁であったが不仲であり後に腹帯氏は大久保氏を攻め大久保氏は白根氏が入る以前に滅びたという説もある。舘から伸びた閉伊川蛇行の先端には応永3年(1396)の古い梵字の石碑がありこの一帯がかなり古い時代から開発されていたことが伺える。
川井舘
川井舘は現在の川井村役場の背後にある山の南西側尾根の先端上部の閉伊川と小国川が合流する場所にあった。眼下には閉伊川支流の小国川が流れ込み川内~区界~梁川を経て盛岡へ向かう閉伊街道と立丸峠を経て遠野へ、笛吹峠を経て金沢・大槌への交通要路を睨む重要な舘であった。尾根の先端には閉伊七社として安蘇権太郎重休(あそごんたろうしげやす)を祀る川井明神がある。舘主は川井氏で閉伊氏の縁者として閉伊川上流域を代表する土豪だったと考えられる。藩政時代になり閉伊川上流・中流域のほとんどは南部藩重鎮・楢山氏の所領となり川井氏をはじめ閉伊氏直系のかつての土豪は楢山家臣に組み込まれやがて里人の中に溶けていった。
箱石舘
箱石舘は宮古から盛岡へ向かう国道106号線の箱石トンネルの右側に見える尾根の先端部に砦や主郭が細長く配置されており、舘の南東側は閉伊川が峡谷となり大きく湾曲しており舘の下には川井中学校がある。舘主は箱石氏とされるが詳細は不明。安土桃山末期の慶長年間に新山大権現として、早池峰新山神社の社殿が建立されており祝詞に河井氏、河内氏、刈屋氏と並んで箱石左衛門丞の名があり箱石地区の土豪であったと考えられる。『参考諸家系図』では花輪氏の縁者として箱石に領地を持つ人物がおりこの人物が以後箱石と名乗るようになったとあるが、箱石舘との関係性不明だ。
江繋舘
江繋舘は江繋集落から若干離れた向田地区の南東側にある比較的低い尾根の中腹にあったという。基部は現在畑になっており南側に小さな祠が祀られている。舘主は江繋氏で閉伊氏の縁者とも、千徳城の一戸氏とも考えられるがその詳細は不明だ。隣接する集落の小国氏とは何度か戦があったとされ、『系胤譜考』には江繋氏が一戸系として江繋村の他に八木沢村、重茂村も所領したとあり、一戸千徳氏の系譜を主張している。しかしながら小国川沿いには閉伊氏の縁者が入植し一戸氏の時代以前に周辺開発をしていたも考えられる。またこの辺りは桐内地区などを含め古くから産金のあった場所で農耕とは違う歴史や文化が入り込んだ場所でもある。
小国舘
川井舘から小国川をさかのぼり江繋地区を過ぎ小国川に支流の薬師川が流れ込む付近の集落が小国で、小国舘は集落と小国川をはさんで東側の尾根の上に築かれていた。集落を見下ろす舘山の麓には下閉伊でもかなりの寺歴がある大円寺があり、この寺があった場所が舘の大手門があった場所と考えられる。小国はその名が示す通り早池峰山を中心にした閉伊地方の北上山地にぽつんとある盆地で耕地が広く古くから遠野地区とも交流があった。この地を統治していたのがした室町中期にこの地に入り舘を築いて土着した小国氏だ。大円寺の伝えによれば応永元年(1394)創建しその後無住となっていた寺を小国氏の祖が再興したとあるが年代ははっきりしていない。