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鍬ヶ崎の屋号あれこれ

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先祖の職業を伝える数々の屋号

鍬ヶ崎下町はかつて上町が遊里の芸者町だったのに対し、下町は漁師の町のイメージが強かった。そんな下町には次のような屋号があった。魚獲りの名人も多く、その尊称としてドンコ(エゾアイナメ・ヒゲタラ)釣りの浜一番名人はどんこ屋(宇都宮)と呼ばれた。カラガエ(エイ)獲り名人はからがえ屋(大倉)で、タイ釣りは鯛こ屋(中村)、ハモはハムと呼ばれていたのでハム屋(小本)だった。宮古ではアナゴをハムと呼んだ。アサリ貝の達人があさり屋(中里)だ。下町以外の町にも多くの屋号が存在する。浜で初めての試作や使用の草分け(創始)にも屋号がついた。ホッキ貝を獲る器具を導入したのがきかい屋(宮本)で、天当(東)船を初めて造船した船大工の佐々木さんはてんとう屋。和船の櫓製造が櫓大工屋(舘洞)。漁網を縫った鳥居家はあみ(網)漁師どん。魚箱を作った家が箱屋(佐々木)。魚桶製造が桶屋どん(吉田)だった。

鍬ヶ崎の屋号を考える

生業を分類するため屋号は大いに役立った。屋号はそれを名乗ることにより、その家の生業から一族が持つその土地での身分や財力までもを表した。これら屋号の特徴としては先祖が外部から鍬ヶ崎に入り成功した場合、福島屋(丸福)、相馬屋、秋田屋のように出身地を名乗ることが多かった。また、近在から鍬ヶ崎に入った家は女遊戸屋、日出島屋と名乗る場合もあった。商売が拡大し屋号が登録商標となったものは、菱屋、小松屋、丸吉などがある。明治以後の新しい戸籍管理制度によって鍬ヶ崎の人々も苗字を持ったが、鍬ヶ崎は漁師町ゆえに前述の屋号に加え漁師町特有の粗野な屋号も多く残る。農村部などではその家が長い歴史を持つことから家が建っている場所やその土地の特徴を屋号とする傾向が強いが、漁師町である鍬ヶ崎にはそのような家屋は少なく、屋号となる素材はその家の先代の身体的な特徴やあだ名、悪口も多かった。これらの屋号はすでに廃れたものもあるが独特な変化をとげながら今も鍬ヶ崎のアンダーグラウンドに存在している。

鍬ヶ崎屋号色々

車屋(菊池) 上町で初めて人力車を営んだ
豆屋(坂本) 先祖が煮豆を売り歩いて開業した
油屋(鈴木) 魚油の行商をした
橋本膏薬(平井) 膏薬の専門店。ハンペー膏薬で有名だった
石切屋(大蔦) 石切工を職としていた
こうや(吉田) 染物(紺屋)を職としていた
塩屋(佐々木) 塩を売っていた唯一の店だった
キセルヤ(藤田) 煙草を吸うキセルを作る専門職だった
イダコヤ(舘洞) 巫女が出た家だった
おその子屋(舘洞) 先祖におそのと言う勤勉な女がいたから
鋳掛屋(上田) 旅の鋳掛師を泊めて世話した
畳屋(藤井) 畳職を営んでいた
裏鍛冶屋(佐々木) 蛸の浜裏通りで鍛冶屋をしていた
豆腐屋(村上) 豆腐製造をしていた
傘屋(金沢) 竹製傘を作った家と伝えられる
木挽屋(小林) 他村から移住した木挽職漁師まちで珍しかった
お鶴酒屋(小本) お鶴婆さんが酒屋(飲屋)を営んで繁盛した
ハットウ屋(鳥居)  ハットウを作って売り歩いたので珍しかった
馬子屋(畠山) 早稲栃から移住し馬を飼育し農業を営んでいた
あんねい丸(北舘) 安寧丸の船頭が出た家
チョウズボ屋(舘洞) 蝶番(チョウズボは方言)を作る職だった
源コ鍛冶屋(本田) 鍛冶屋を家業とした
三百屋(田中) 昔三百代人(弁護士)をした人が出た
小紋屋(沢内) 日影で遊郭を営み、小紋付着を愛用した美芸が出た
トーヒヤ(阿部) 鮮魚販売。問屋がトーイや、トーヒやと訛った
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