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鈴木モヨ

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  • すずきもよ【分類・看護婦】
  • 明治~昭和:明治26年~昭和58年(1893~1983)

日本のナイチンゲールと賞賛された

ロシア革命で追われた傷病ロアシ兵を手当して「日本のナイチンゲール」と賞賛された宮古出身の人物がいた。その名は鈴木モヨ。看護婦として朝鮮に渡り、革命の中の兵士を助けた。その後は、昭和大学の総看護婦長として活躍し、戦後、ナイチンゲール記章を受賞するなど、宮古が生んだ国際的な活動の場を得た職業人だった。
モヨは明治26(1893)年11月12日、三姉妹の次女として宮古に生まれた。同41年3月、宮古尋常高等小学校高等科を卒業。4年後、盛岡の日本赤十字社岩手支部病院救護看護婦養成所に入学。大正4年には看護婦の勉強を経て、私立川村産婆学校に進み、住み込みで働きながら1年で卒業し助産婦試験に合格。同7年日赤救護看護婦長候補生に採用され、同8年7月、朝鮮総督府医院婦長として朝鮮に渡った。
当時、ロシアではロシア革命を遂行する赤軍と白軍が戦闘を繰り広げており、モヨは白系ロシア人の傷病者や避難民を救護するよう、朝鮮赤十字本部からの要請で任務についた。その時の活躍で「日本のナイチンゲール」と賞賛された。時の総督は水沢出身の斉藤実。その夫人からも可愛がられたという。
大正12年9月、関東大震災のためモヨは直ちに東京へ戻るように命じられた。3ヵ月間、救護に当たった後、退職して仙台陸軍衛戌病院に婦長として勤務。
昭和3(1928)年10月、モヨは創立されたばかりの昭和医学専門学校(現昭和大学)の付属病院に婦長として就職。以後、退職するまでの同44年12月まで務めた。昭和42年5月に第21回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞。生涯独身を通し、付属病院時代は部下や教授らから「監督」と呼ばれ多くの功績を残した。
昭和58(1983)年12月2日、肺がんのため同付属病院で亡くなった。89歳だった。 東京品川区旗の台の昭和大50年記念館にはモヨのナイチンゲール記章や賞状、従軍記章などが展示されているほか、同大学附属看護専門学校では学業、人物とも優秀な卒業生に鈴木モヨ賞が贈られている。

  • ※参考資料/「宮古の映画物語」(鬼山親芳著)
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