近世の田老
4カ村に分かれていた江戸末期から明治期
藩政時代の田老地区は南部氏の所領とし宮古代官所直轄地で田老・乙部・摂待・末前の4カ村に分かれていた。寛政9年(1797)の『邦内郷村志』には民家・田老村223軒、乙部村127軒、摂待村88軒、末前村60軒と記載されている。幕末の『三閉伊路程記』では「田老、家百軒、田老は乙部と続、町屋作にてよき村也…(略)町裏に金比羅の社あり、町中に堰あり、御高札場あり…」と記載されている。維新後、新たな邦内検地のため編纂された『岩手県管轄地誌』によれば田老村は宮古駅(宿場)まで三里零八町壱拾五軒(11・7キロ強)小本駅まで三里二拾八町五拾八軒(12キロ強)で、村はほぼ山で、東南側は断岸で海に沈み、東に接して小湾となりその半ばが砂州、小田代川、小川が西北隅から東南に流れ、大ゾウリ川が北から流れ合流して湾に注ぐと地勢を記している。この時代は田老村は川向、向山、西向山、樫内、古田、小田代、辰ノ口、篠ノ倉、笹見平、向桑畑、上小田代、養呂地、末前沢、和蒔、八幡水、田中、館ヶ森の字地がある。戸数318戸、人数1611人、牛169頭、馬195頭、漁船102隻、道路は宮古方面、小本方面へ向かう後の国道45号線となった浜街道と田老村から末前村を経て有芸・岩泉へ向かう有芸道があった。村の東川向かいには五等郵便局、館ヶ森には宮古警察署田老分署、学校は川向に公立小学田老学校(生徒数62)があったようだ。
田老村と隣接する乙部村は田老市街地を流れ長内川と合流して海へ注ぐ乙部川北岸から新田平までの丘陵地であり荒谷、野原、乙部、青砂連(あおさり)越田、清水端、赤坂、瀧ノ沢、乙部野、重津部、重津部上、青野瀧、青野瀧久木、小堀内、飛、長畑、新田平、毛羅須(けらす)が字地名として記載されている。戸数157戸、人数840人、牛175頭、馬15頭、漁船70隻、河川は乙部川、長内川がある。特筆されるのは鉱山で、後の田老鉱山は朱砿(あらがね)とされ「村ノ西三ツケ森ノ内、小字戸沢山ニアリ。開始及ヒ発見年月詳ナラズ」としている。
末前村は田老駅(宿場)より西に一里壱拾八町(約4キロ強)、有芸堂経由で下有芸元村駅まで一里壱拾五町壱拾八軒(4キロ強)にある山間の村だ。字地は七瀧、青倉、立腰、日影山、森崎、末前、和山、鈴子沢がある。戸数49戸、人数172人、牛51頭、馬39頭。道は下有芸から乙茂方面へ向かう有芸道と、有芸経由で岩泉へ向かう岩泉道がある。
摂待村は南を乙部村と北を小本村、西の山間部を有芸村に接し、各村との境は険しい峠と渓流を境としている。字地は向新田、水沢、拂川(はらいがわ)片巻、星山、摂待、上摂待、外山、畑、上沖、川向、岩瀬張、小堀内がある。戸数は88戸、人数は460名、牛173頭、馬11頭、漁船8隻、銅鉱山2箇所があり「村ノ南、瀧ヶ沢山ノ内、小字壁ノ沢ニアリ。明治七年発見、未ダ開試セズ」「村ノ南、向新田山ノ内、小字カント沢ニアリ、明治5年発見、未ダ開試セズ」と記載される。