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荒川法勝

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詩人であり作家として活躍した荒川法勝は大正10年(1921)9月7日、僧侶の父のもと長男として旧崎山村の母の実家で生まれた。2歳の時に母が病死、父は修行のため高知、京都、東京の寺院を転々としていたため、アメリカ人エル・ラーセンと結婚していた父の姉のもとや、鍬ヶ崎の伯母夫妻のもとで育った。法勝という名は、法勝寺という寺の名からとられたと言われている。
少年時代から読み物の世界に眼を開き、歴史と綴り方を好み、6年生のとき当時の鍬ヶ崎出身で新進作家だった伊東祐治に出会い、綴り方など見てもらった。
昭和11年、県立水産学校に進み、友人と回覧雑誌「白鴎」を創刊、詩、小説などの習作を発表するようになった。昭和15年に文芸への道をめざし上京した荒川は俳句を学び、評論など発表していたが日中戦争から太平洋戦争と続いた5年有余の歳月、文学から遠ざけられた。秋田に入隊した後、24歳で復員。佐々木信綱の門に入り「心の花」に短歌を発表。詩、小説の習作を試みた。 昭和22年、作家としての出発点が訪れた。処女詩集「青い鬼」を発表。これは学生時代、ガリ版で発行した自家版の第一詩集である。詩の舞台は幼少時をに過ごした宮古の海と町である。心に残る思い出が懐かしさとともに描かれている。
その後40歳で詩集「生物祭」を出版。49歳で独自の詩法を身に付けて「鯨」を出版。55歳で「海」を。いずれも少年時代の郷愁が原風景となっている。さらに作家としての文学活動も多方面に広がっていった。小説には現代小説と歴史小説の二分野があり、前者が「天開山」「波のうえの図」などで、後者が「将門記」「真説南総里見八犬伝」や「異説忠臣蔵」などの秀作がある。「異説忠臣蔵」は千葉日報紙で連載され、吉良上野介(こうずけのすけ)が生きていたという設定のもとで好評を博した。
小説の他に「西脇順三郎論」「泉鏡花伝」「坂口安吾論」などの評論、評伝や短歌、俳句、童話なども手掛け、スタンダール「赤と黒」の翻訳もした。
教育分野でも活躍し、高等学校現代国語の執筆や大学の国文学の研究者として講座を持つなどもした。日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員をはじめ詩人の登竜門であるH賞の選考委員にもなった。長年千葉県に在住し、千葉の文学振興に貢献し、昭和59年房総芸術文化協会より表彰されたほか、詩碑が東金市御殿山、大利根河畔、旧水揚場に建立されている。平成10年(1998)病気のため77歳で亡くなった。

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