花輪小学校牛伏分校
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2014年10月23日 (木) 16:20時点における最新版
[編集] 明治20年花輪尋常小学校牛伏分教場として開校
牛伏分校は、明治5年(1872)学制発布に伴い同7年、地区の長屋を校舎として寺子屋式の授業を始めたのが学校としてのスタートとなった。のち明治22年(1889)に老木、根城、牛伏を含む老木村と花輪村が合併した際、生徒たちは老木分校に通学するようになったため廃校となった。しかし牛伏から老木分校へ往復するには閉伊川を4回も渡らなければなく、洪水や渡し船、橋の不便から入学児童も皆無に近い状態となった。その後牛伏では分校設置の請願書を何度となく提出したが回答は得られなかった。そのため牛伏では明治42年(1909)単独で校舎を建設し独立した授業を開始した。一方村当局には村立管理の請願を続け大正5年(1916)花輪尋常高等小学校牛伏分教場として村営となり、閉校した昭和45年まで約60年の歴史を刻んだ。閉校に際しては懸案中だった閉伊川にかかる牛伏橋全通を条件に列車による通学で従来の花輪学区から千徳小学校へ学区変更し統合した。