盛岡暦
文字が読めない人に情報を絵で伝える絵暦
絵暦はめくら暦とも呼ばれ実際に目が不自由な人のためではなく、文字が読めない人のために考案された単純な図形や絵で暦を表現した暦のことだ。その昔、南部領には文字の読めない人が多く、図案化した絵文字で知らせる「めくら暦」「めくら経文」などがあり、庶民はそれらを大いに役立てていたという。また宮古市田代や山田町船越にある絵文字の入った「絵入り道標」なども、文字が読めない人にも適切な情報を与えようとする同様の考え方で建立された石碑と言えるだろう。
南部めくら暦を読むために
南部めくら暦には現在の安代町であり当時の鹿角郡、田山村で考案された「田山暦」と盛岡城下の版元が発行した「盛岡暦」がある。前者の「田山暦」は使用された地域が狭く限定され発行部数も少なかった。それに対して「盛岡暦」は若干発生が遅いものの、「田山暦」のように複数の小さな版木を使うのではなく全体を一枚の版木として使い当初から商業ベースとして考案されたため発行部数も多い。また年号や年中行事を表現した各種図案は「田山暦」に比べ洗練され、南部めくら暦といえば通常は「盛岡暦」のことをさす。
維新後は盛岡城下に版元が増え明治6年まで製造が続けられたが太陽暦普及に伴い一端廃れた。その後明治28年に太陽暦版で復活し現在は「南部絵暦」として素朴な土産品、あるいは暦愛好者たちに喜ばれる民芸品として印刷されている。また田山暦木活版木85個、盛岡暦版木10枚が、それぞれ県指定文化財になっている。
盛岡暦の基本デザインは最上部左右に太刀で「大の月」脇差しで「小の月」で一年が6ヶ月づつ表記され大小の月にはその月の一日の干支の絵がある。暦の上部中心にはその年の元号の絵文字(天保なら貂(てん・動物)と稲穂)、賽の目で表記した年号と十二支の干支、その下に日食と月食、その年の歳徳神の方位、その年の天赦日、甲子、初午、彼岸入り、社日、八十八夜などの年中行事を絵文字と賽の目で月日を表している。その他に入梅、半夏生、田植えよし、伏、二百十日、土用の入り、十方暮れの入り、八専のはじめ 庚申、刈り入れよし、冬至、寒の入りが表記され、最下部に版元名がありこれも絵文字になっている。
- 【年号】
鯛と笙で「大正」重箱で「十」丸6個で「6年」、卯年と読む。 目と琴柱(ことじ)で「明治」重箱が3個で「三十」丸9個で「9年」午年と読む。
- 【1月から12月】
右は太刀で「大の月」を表す。左は脇差しで「小の月」を表す
賽の目で月を、干支の図はその月の一日の干支を表す。
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- 【日食】
太陽が真っ黒になって日食を表す。左は賽の目1で「1月」重箱で「10」丸印6個で「6」。すなわち1月16日がこの年の日食となる。
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- 【初午】
葉っぱで「は」旗の乳で「ち(つ)」馬で「うま」。賽の目2で「2月」四角と丸9個で「9」。この年の初午は2月9日となる。
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- 【月食】
基本的には日食と同じ。三日月を描いて月とする。左は賽の目6で「6月」重箱で「10」、丸5個で「5」。この年の月食は6月15日となる。
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- 【半夏生】
中年の男が頭髪を気にして「ハゲ」を表し半夏生とする。半夏生は夏至から11日目。賽の目5で「5月」重箱で「10」四角2個で「2」。この年の半夏生は5月12日となる。
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- 【田植えよし】
昔からの習わしで八十八夜から33日経ったら田植えをすると伝えられる。賽の目5で「5月」丸1個で「1日」同じく重箱で「10」。田植えは5月1日から10日ぐらいが良いとしている。
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- 【土用入り】
縁台で半裸の男が団扇で涼む夏土用の図柄。土用はそれぞれの季節の最後18日間ぐらいで春夏秋冬の一年に4回ある。
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- 【夏至】
芥子坊主に濁点で「夏至」とする。江戸時代にアヘンの材料である芥子が自生していたのか、あるいは栽培などされ一般的だったかは不明。
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- 【入梅】
盗人が荷を奪う図柄で「入梅」とする。盛岡暦の中で最も難解かつユニークな表現。賽の目5で「5月」重箱で「10日」丸1つで「1日」。この年の入梅は5月11日だ。
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- 【八十八夜】
大きめの鉢で「はち」重箱で「じゅう」小さい鉢で「はち」弓矢で「や」で「八十八夜」と読ませる。賽の目4で「4月」重箱で「10」。この年の八十八夜は4月10日だ。
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- 【冬至】
三重の塔で「とう」、琴の音階を合わせる琴柱(ことじ)で「じ」として「冬至」と読ませる。賽の目5と6を足して「11月」丸と四角8個で「8日」。この年の冬至は11月8日だ。
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