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盛合綏之

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2012年12月26日 (水) 12:39時点における最新版

[編集] 軍医・医師・政治家、盛合綏之(やすゆき)

宮古新聞の社主で医師であった盛合綏之は明治4年2月18日、下閉伊郡津軽石村(現宮古市津軽石)盛合一郎の長男として生まれた。幼名は亀助。済生学舎に学び、明治22年医師になり、日清、日露戦争には第8師団軍医として出征。日露戦争から凱戦後、仙台市東7番丁にしばらく開業していたが、大正13年、長男、光郎(慶大医学部卒)、次男、芳枝(日本医専卒)と共に宮古町築地に盛合医院を開業。のち長女、紀功子(帝国女子医専卒)と共に宮古町郊外、旧花輪村に分院を設置。今で言う僻地診療に当たっている。
盛合は大正から昭和にかけて宮古地方に発行された「宮古新聞」のオーナーでもあった。「口は出さないないが、カネは出す」と一切の経営を主筆の小国露堂に任せた。書画をたしなむ文化人でもあり、雅号を池峰と称した。

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