盛合光恕の墓
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親々堂を受け継いだ文久の豪商・盛合光恕
江戸中期から末期にかけて千石船「虎一丸」「明神丸」を擁して江戸通いの廻船問屋として、また造り酒屋、質屋として富を築いた津軽石の豪商・盛合家は藩政時代から近世まで宮古の経済界の中で大きな影響力を及ぼしてきた。そのなかにおいて、最も漢学・詩学に秀でたのが、号を「寛斉(かんさい)」と称した盛合中左衛門光禧(みつき?)であり、この人物が母屋と連結した「親々堂」という客間と庭を拵えた。親々堂は当時の盛合家の財力の粋の集大成であり、土台の石から部材のひとつひとつが吟味された貴賓室でもあった。そんな親々堂を造った中左衛門を父に持ち父譲りの感性で漢学・詩学に才能を発揮したのが盛合光恕(みつひろ)だ。
盛合光恕は通称伍助、号を「魯斉(ろさい)」と称し、幕末の文久年間(1861~1863)の南部藩「御支配帳」に二十四石の禄が記載されていることから南部藩給人でもあったが、それよりも先代から受け継いだ千石船・虎一丸での廻船事業は莫大な利益を生み、近隣の豪商・吉里吉里善兵衛と交際があるほどだった。幕末維新の狭間でもある慶応2年(1866)に57歳で没した光恕は、豪商の倅として生まれた自らの人生を淡々と歌って辞世句とした。墓は大森にある公葬地の盛合家旧墓所にあり裏面には句と明治維新を憂いだ漢詩が添えられている。
甘く喰い さむくなく衣て暮らしけり
いそななとせの けふの今日まで
誰知五十余年夢忽被 (たれぞ知る五十余年の夢、たちまち)
却風吹覚来 (こうふうに吹かれ覚めきたる)