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白浜丸

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定期巡航船・白浜丸

定期巡航船・白浜丸は閉伊川河口の築地岸壁から重茂半島の白浜地区を結ぶ定期船で昭和2年に運行が開始された。この船は船名が示すように白浜地区民らが建造した小型客船で、白浜地区から愛宕小中学校に通う生徒の他、郵便、新聞、物資など、そして住民の足であると同時に文化も運び続けたが平成2年、経営難から惜しまれつつ引退。その後航路は岩手県北自動車の観光船事業部が引き継いだが、愛宕中学校廃校にともない定期運行を終えた。白浜地区と閉伊川河口・築地までの片道は海路で3・4キロ。市民にとっても思い出多き船であったことは間違いない。

さようなら白浜丸。平成2年60年の歴史に幕

 宮古の築地岸壁から宮古湾を隔て、対岸の重茂半島白浜地区を結ぶ定期巡航船・白浜丸は約3マイルの距離を往復する宮古湾横断巡航船だった。船には白浜地区から愛宕小学校・中学校へ通学する児童生徒をはじめ、買い物客や郵便、新聞、食料品などの生活物資、そして小さな船は情報や文化も運び続けた。しかし、そんな白浜丸も船の老朽化、重茂半島の道路改善や自動車の普及などの逆風の中で赤字運営が続いていた。それでも愛宕小中へ通う約30人ほどの生徒を運んでいたが平成2年3月31日をもってその60年あまり続いた長い航路の歴史に終止符を 打った。
 なお、第二白浜丸引退後はこの航路を岩手県北バスが引き継ぎ観光船での代行で航路運行を維持することになったが、これも後にバス輸送に変更され愛宕小学校白浜分校閉校、愛宕中学校閉校と同時に廃止され現在に至る。

第二白浜丸の歴史

白浜丸運行の歴史は昭和2年まで遡る。当初は地区民らが対岸の磯鶏、藤原、閉伊川河口の愛宕地区との交通手段として中古のはしけ船を購入し改造して貨客船として就航させたのがはじまりだ。この頃は地区民2軒が一組となって渡船番を務め便宜を図った。後に昭和5年、9年に和船式客船を建造、13年にははじめて西洋式の客船を就航させて航路の基礎を作った。戦後になり昭和27年に建造した第一白浜丸は10年間就航。その後37年に第二白浜丸を建造した。この船に使用されている木材は巡航船建造のため月山国有林の払い下げを営林署に申し立て地区民一丸となって切り出したもので、まさに白浜地区をあげての一大事業であった。

Forever白浜丸

 生徒らにとって通学に欠かせぬ船であり、白浜地区民にとっては生活に欠かせない船であった。晩年赤字経営が続いた最後の年は白浜から愛宕小学校へ通う5・6年生が15人、愛宕中学校へ通う生徒が14人であった。このほか地区民ら数人が一日4便の白浜丸を利用していた。そして、白浜海岸の桟橋は人との出会いと別れの舞台でもあった。出征する兵士を勇ましく送り出し、転任する学校の先生を見送り、嫁に行く娘、出稼ぎに出る男たちを見ってきた。そして、白浜丸は宮古湾を走り続けた。昭和43年に8代目の船長として第二白浜丸を操船してきた中村幸蔵船長(当時71)は「時代の流れとはいえ、廃船はさびしい。私にとって白浜丸こそが生活のリズムでしたから」と語った。
 白浜丸操舵室の3枚のガラスには戦後の高度成長と変貌してゆく宮古湾が写っては消えていった。そして子どもたちの歓声を波間に響かせながら白浜丸の長い航海が終わったのであった。  

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