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田中茂

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  • たなかしげる【分類・歌人】
  • 大正~昭和:大正8年~昭和63年(1919~1988)

漁民と海をテーマにした演出家

田中茂は戦後の宮古にひとつの演劇の文化の灯を点らせ、脚本家として執拗に海に生きる人々を追い続けてきた。海をテーマにした劇団の主宰者として40年間、地方演劇の文化を支えながら中央演劇界にもその名を響かせてきた。
田中は大正8年(1919)2月22日、宮古市鍬ヶ崎に生まれた。昭和8年宮古尋常高等小学校を卒業、昭和14年に現役兵として入営。戦後の昭和22年、田中謄写堂を開業。後に田中タイプ印刷と改組し代表取締役となる。
田中と演劇の始まりは昭和23年(1948)の秋頃だった。当時「ともしび会」という学校枠を超えた高校生の文化活動集団が、宮古に脚本を書く田中という人物がいる事を知り、共に演劇の研究会を発足できないだろうかと相談を持ちかけ、発足させたのが「劇研あしあと」だった。公民館などの施設のない時代だったが田中たちは苦労しながらも宮古の若者たちと公演と劇作を精力的に展開。劇研は「あしあと」から「宮古演劇会」そして後に現在の「劇研麦の会」へと名称を変えてきた。
上演作品も田中の創作劇が中心となり、当時、誰も取り上げなかった三陸漁民の生活にテーマを求め、放送劇や舞台劇として発表。ついには演劇専門誌「テアトロ」に作品が掲載され、年間を通じての同誌掲載作品中の最優秀作品として宇野重吉氏らの合評の対象とされたり、劇団仲間などの上演台本として取り上げられるようになった。
昭和37年「はんもうど」、同44年「でっかい錨」の作品が全国青年大会の最優秀賞を獲得。「はんもうど」とは漁師の呼称である事を初めて知った審査員は、目前で繰り広げられる田中作品に魅了され「日本にこんな素晴らしい脚本が存在していたのか」と評価した。また全国アマチュア演劇研究大会における演出脚本などの各賞も数々受賞するなど、作家としての名声も高まった。「素晴らしい劇作家を地方に置くのはもったいない、中央でプロ作家としての活動を」との要請もあったが、田中は宮古に留まり海をテーマにした作品を書き続けた。
昭和55年、劇研麦の会はアイルランドで開催された世界アマチュア演劇コンクール「ダンドーク国際五月祭」に日本代表として参加。ついに世界へと羽ばたき、作品「海の太鼓」は大きな反響を得た。田中は昭和23年から62年までに36作品を発表した。59年に宮古市芸術文化協会功労賞、62年に岩手県芸術文化功労賞を受賞。昭和63年9月14日、骨髄炎のため69歳で亡くなった。

  • 出典:「追想・田中茂」(追想・田中茂刊行会)「田中茂脚本集」

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