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横田熊五郎

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  • よこたくまごろう【分類・獣医学者】
  • 明治~昭和:明治7年~昭和28年(1874~1953)

馬とともに生きた男

横田熊五郎は明治7年2月24日、千徳村の横田卯衛門、チエの三男として生まれた。
千徳小学校を出てから宮古町にあった郡役所の給仕をしながら独学で勉強し、後に盛岡農学校に入学、獣医学を学ぶ。後、明治30年、陸軍三等獣医に任官、以来、陸軍の獣医としての道を精進してゆく。当時の帝国陸軍にとって兵隊や物資の移動手段のほとんどが馬であったため、馬の健康管理や怪我の治療は戦功にも影響を及ぼす大切な部分を担っていたのである。
明治35年、熊五郎は馬の繁殖にかかわる「馬匹(ばひつ)去勢練習生事業」に参加し、格別の勤労ありと評され、記録には当時の農商務省より授与されたとある。翌年には陸軍獣医学校に入学、約半年間の研修を終えるが、抜群の成績を残し、明治天皇より恩賜(おんし)時計(懐中時計・写真)を賜り、同年一等獣医となる。
明治37年、朝鮮半島分割をめぐるロシアとの軋轢により、対日露国交は断絶、旅順港が封鎖され、日露戦争勃発。陸軍獣医である熊五郎も従軍。清国・青泥窪(せいでいわ)に上陸、馬溝台(ばこうだい)の戦に参戦、砲弾の雨をかいくぐって同38年暮れ凱旋帰国。戦役の功績を認められ勲五等双光旭日章を賜る。以後、大正時代に入ってからも陸軍における獣医学の権威として数々の叙勲の栄に輝きながら、陸軍獣医学校の教官、陸軍大学校教官、近衛師団獣医部長などを歴任し、大正14年5月陸軍を獣医としては最高位の中将として退役、余生を過ごすことになる。
軍を退いてからも、馬との関わりは続き、昭和4年、東京競馬倶楽部嘱託顧問、同13年には馬術関係団体の発行する雑誌編集に関わりながら、同17年には日本馬事会に所属し、会報の発行や専門図書の編纂に専念、生涯を馬とかかわって生きた。
生前の熊五郎を知る数少ない古老たちが語る熊五郎の人物像は、極めて温厚な礼儀正しい人物であったという。また兵隊時代に東京中野に住んでいた頃は宮古から上京した学生等を自宅に受け入れるなど故郷の人材を育てることにも寄与したという。
昭和28年、入院先の宮古共済病院にて胃潰瘍のため他界。享年80歳であった。

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