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梅村功二

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梅村功二と宮古の弦楽奏

梅村功二氏は大正7年(1918)10月に生まれた。幼少期を厳しく父・保に育てられた。昭和11年(1936)盛岡工業学校建築科卒業後一家で満州に渡った。父と同様満鉄に勤務し、鉄道局ではブラスバンドに入団。その後有志と共に軽音楽合奏団を創設し、将校や社員、僻地への慰問など行った。 昭和14年(1939)4月、関東軍独立野砲第1連隊に入隊。軍隊生活が始まった。太平洋戦争が始まり、昭和17年(1942)真冬のソ連国境で行われた関東軍特別演習に参加。その後除隊となって職場に復帰した。しかし昭和20年(1945)4月、再び兵隊として招集されたが終戦を迎えた。招集解除となったがソ連の捕虜となり、死の行軍を経験。しかし、音楽好きのソ連将校にアコーディオン演奏を命ぜられ作業免除になるなど、音楽の力によってその苦難を乗り越えたという。

日本に引き揚げ盛岡からすぐに宮古へと家族で移住。昭和22年(1947)に宮古市役所に勤務した。その後、功二は子どもたちのヴァイオリン指導を手掛けるようになり、現在の梅村ヴァイオリン教室へと発展、その子どもたちをもって誕生した宮古ジュニア弦楽合奏団は以来50余年の歴史を刻み、1000人近い子どもたちがこの教室から巣立った。  

きらきら星のように

功二の音楽指導のモットーは、すべてを愛する精神であった。子どもたちすべては「きらきら星」の演奏から始まった。誰しもが夏の演奏会「音楽の夕べ」で、この曲の演奏から舞台に立った。この曲で幕があがると、暗闇の中に一筋の光が差し込むような情景が現れる。誰しもが聴きなれた、そして懐かしいような曲に感動を覚えた。門下生たちは誰しもこの曲を忘れない。あのステージに立ってきらきら星を演奏するのが目標だった。子どもたちを光り輝かせる精神がそこにあった。その彼も平成12年(2000)1月、きらきら星となってこの世を去った。82歳だった。

ブラスバンドや市民オケ誕生も手掛ける

昭和30年(1955)功二は当時の中屋重治宮古市長にブラスバンドの設立を進言。しかし時期尚早とのことだった。同36年(1961)に設立を依頼され、盛岡の萩原楽器店に中古楽器を揃えてもらい発足にこぎつけ、県のコンクールに出場した。指導は佐々木幸夫氏、伊藤孝氏だった。昭和39年(1964)には、かねてからからの念願であった市民オーケストラの構想を持ちかけ、田崎信治氏、松田初太郎氏、谷岡恭氏、加藤弘道氏らの協力で設立した。

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