梅村保
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梅村保の生涯
太田カルテットの中心的メンバーでありチェロを担当していたのが梅村保であり、現在、宮古の梅村ヴァイオリン教室の主宰者である梅村圭一氏の祖父にあたる。梅村保は明治21年(1889)、盛岡市に生まれ、明治40年(1907)、盛岡中学(現一高)を卒業、盛岡高等農林学校獣医学科(現岩手大学農学部)に入学したが、病気療養のため退学。太田村に農園を経営しながら、弦楽と剣道の修行及び指導に全力を傾けた。保の父は、南部藩の剣道師範戸田一心流の腕前を持っていた。そのため22歳の時すでに戸田一心流の免許皆伝、大正14年(1925)には戸田一心流19代目の印可を受けた達人だった。
音楽は明治45年(1912)以降、大正12年(1923)に至るまで、ヴァイオリン、ビオラ、チェロについて平井保三、川上淳、杉山長谷夫、多忠亮(おおのただすけ)各氏から指導を受けた。彼のヴァイオリンは、岩手県では比肩するものがないと言われ、梅村抜きにして太田カルッテトはなかったとも言われる。
昭和12年(1937)一家で満州に渡った。満鉄吉林鉄道局に勤務しながら、社員有志に武術と音楽を指導した。その後終戦となり捕虜などの身から逃れるなど命からがら日本へ引き揚げ、親戚を頼って宮古に移住したが昭和21年(1946)10月だった。宮古では三陸木材、共同塩業組合、田中組、宮古駅売店と職を転々。駅前マーケットにも店を出した。
その間、旧館(現愛宕)の第5分団屯所や小沢にあった市営住宅でヴァイオリンの指導も行った。宮古にヴァイオリンの音が鳴りだしたのはこの時からだった。しかし、昭和23年(1948)8月15日、盛岡へ墓参に行き自決した。