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桐内沢

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奥州藤原氏黄金文化に貢献したという桐内の砂金

繋地区から旧道を折れて西に数キロ行くと、桐内という地区にたどり着く。この集落を川井村の古老たちは「きんねぇ」と呼び、この地区が元来「金内」という産金地帯だったと伝承している。この地区を流れる桐内沢は源流が志和須森(1087・7m)と高桧山(たかびやま)(1167・1m)で、この沢に鎌倉以前の古い時代から産金があったという。一説によれば奥州藤原氏の時代この地区には多くの砂金採りが入り込んで全盛を極めたとされ、桐内地区の有力者で代々助右衛門を名乗っていた人物が、平泉の金色堂の造営の噂を聞き藤原氏に砂金二貫を寄進したという。その後永く栄えた助右衛門の家だったが、江戸時代になって滅んだと伝えられている。

閉伊地方曹洞宗開祖・月泉の草庵もあった砂金採りの里

現在の桐内は桐内沢に沿って約10軒ほどの戸数がある山間の集落だ。昭和40年頃までは林業と炭焼きで栄え分校があるほどだったが現在残っているのは老夫婦がひっそりと暮らす家がほとんどだ。畑仕事をしている老人に砂金のことを聞くと、昭和50年頃まで沢を箱メガネで覗いて砂金を拾う者もいたという。採れる砂金は小指の第一関節ほどの大きさだが純度は低く価値はあまりないという。また、桐内には樹齢300年も超すであろうという桐の大木があり昭和初期にはこれを製材して単板の板戸を作っていたという。桐は元々誰かが植裁したもので相当数の樹齢の桐があるということはかなり古い時代からこの地に人が定住していたことを物語る。また「寺平(てらだいら)」という地名もありここには閉伊地方で最も古い曹洞宗の寺歴を持つとされる小国の鶏頭山・大円寺の開祖・月泉大和尚が草庵を結んでいた場所だという。

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地図

https://goo.gl/maps/AFebV

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