松原佐蔵
提供:ミヤペディア
鍬ヶ崎の私塾・松原塾の塾長
鍬ヶ崎の私塾・松原塾の塾長
鍬ヶ崎に松原塾を開いた松原佐蔵は文化14年(1817)鍬ヶ崎に生まれた。金次郎と称し、琴雅とも号した。幼い頃から学問を好み、江戸に出て学問を学びまた一関の千葉氏について数学を学んだ。その後、南部藩に仕え、鍬ヶ崎御給人となった。しかし、家が貧しく生活に困っていたので菓子を商ったり、魚の行商をした。それでも時間を得ては書を読み、ひたすら勉学に励んだ。
佐蔵はその後、弟子を集めて松原塾を創設。当時、宮古には数ヶ所の塾があり、小規模な所で十数人、大きな所は百人あまりも収容しており、この中でも松原塾は多数の子弟を教育した。
佐蔵は寺小屋での教育の後、学制施行により学校が創立するとその教員に委嘱され、明治11年(1878)に解職するまで教育者として活躍した。明治13年(1880)の夏、64歳で病死。門下生らは後、二十七回忌に石碑を常安寺池畔に建立し、その生涯を刻み遺徳を偲んだ。
松原塾だった建物は明治25年になると佐々木半十郎が医師をつとめる佐々木医院となる。仙台第二高等中学医学部を卒業した半十郎は鍬ヶ崎町の医療発展に貢献したが、大正13年、半十郎の跡を継いだ長男、庸夫(やすお)医師の病没により佐々木医院は閉院となった。