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本田竹広年表

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本田竹広伝説

この年表は本田珠也氏プロデュースにより2006年3月5日東京オペラシティコンサートホールで行われた「故・本田竹広追悼コンサート」において本田竹広ファンクラブが作成したリーフレットから一部引用し、月刊みやこわが町の記事に残る記録や掲載記事を加えて再編集した。なお、本田氏はこの他に宮古市内で多くのライブを行っており詳細は把握できなかった。

1945 8月21日岩手県宮古市に、高校教師本田幸八と妻ピアノ講師陽子の長男として生まれる
1957

12歳で音楽家を志して上京。中学2年より国立音楽大学を目指 し、長峰和子女史に師事する
国立音楽大学付属高校入学を経て同大学に至る長峰門下でクラシック音楽家を目指すが同時にジャズと出会いその即興性、自 由なリズムとハーモニーに心を揺り動かされ、ジャズの道へと転向。音楽大学3年生でジャズピアニストとしての活動を開始する

1968 自己のリーダー・トリオ初結成
1969 トリオレコードと契約。初のリーダー作『本田竹広の魅力』他、計8枚のリーダー作を発表。自己のトリオや武田和命カルテッ トを中心に活動していた本田が大きく注目を集め始める
1971 8月12日旧宮古小学校体育館でコンサート
1973 日本のトップ・コンボ、渡辺貞夫カルテットに抜擢され、一躍名実共に日本のジャズシーンにおける若手ピアニストの中心的 存在に躍り出る。以後1978年まで、多くの演奏活動とレコーディングを渡辺貞夫と共に行う
1877 ロン・カーター、トニー・ウィリアムズと競演した初のニューヨーク録音盤『アナザー・デパーチャー』『リーチング・フォー ・ヘブン』発表
1978 増尾好秋、コーネル・デュプレー、アンソニー・ジャクソン、スティーブ・ジョーダン等とのニューヨーク録音盤『イッツ・ グレート・アウト・サイド』を発表。フュージョンコンボ「ネイティブ・サン」を結成し、アルバム『ネイティブ・サン』を ビクターレコードより発売。和製フュージョンの記録的大ヒットとなる。メンバーは峰厚介、川端民生、村上寛、大出元信。 以後『コースト・トゥ・コースト』『シャイニング』『リゾート』『ガンボ』『デイ・ブレイク』『ビアー』などを次々にリリース
1979 『サバンナ・ホット・ライン』発表。スイスのモントルー・ジャズ・フェステイバルに出演。
8月ネイティブサンとして宮古市民文化会館でライブ
1980 ライブ録音盤『コースト・トゥ・コースト』をリリース。
8月ネイティブサンとして宮古市民文化会館でライブ
1981 『シャイニング』リリース
1982 ビクターレコードからポリドールに移籍。バハマにて収録した『リゾート』をリリース。
1983 『カーニバル』リリース。第17回スイス・モントルー・ジャズ・フェステイバルにおける峰厚介、村上寛、鈴木良雄とのカル テットによるライブ録音盤『スクウェア・ゲーム』をリリース
1984 『ガンボ』リリース
1985 ドラムスに実息の本田珠也を起用した『デイ・ブレイク』リリース。井野信義、森山威男と組んだトリオによるスタンダード 曲集『マイ・ファニー・バレンタイン』『イン・ナ・センチメンタル・ムード』をCBSソニーよりリリース
1986 『ビアー』リリース。
10月ネイティブサンとして宮古スターライトでライブ
1987 8月5日ネイティブサンとして宮古ファミリーデパート玉木屋・屋上ライブ。
『アグンチャ』リリース後に「ネイティブサン」解散
1988 4月17日本田トリオ宮古スターライトでライブ。
8月、第1回『ジャズイン浄土ヶ浜』をプロデュース。日野皓正、本田竹広&BIGFUN(本田珠也、富永正寿、米木 康志、三好功郎、チコ本田)、日野元彦トリオ(本田竹広、米木康志)、ポール・ジャクソンが出演。真夏の宮古・浄土ヶ浜を熱狂させた
1989 8月、第2回『ジャズイン浄土ヶ浜』をプロデュース。
ハービー・ハンコックトリオ(バスター・ウイリアムス、アル・フォスター)、本田竹広、鈴木良雄、日野元彦。峰厚介、東 郷輝久、向井滋春、ミッキー吉野、グレック・リー、山岸潤史、今村祐司、タケカワユキヒデ、宮本典子、本田珠也が出演
1990 ファンハウスへ移籍。鈴木良雄、日野元彦とのトリオ作品『バック・オン・マイ・フィンガーズ』をリリース
1991 同トリオによる2作目『アーシアン・エア』リリース
1992 初のソロ・アルバム『シー・オール・カインド』発表。3管編成によるセクテット“EASE”結成。メンバー峰厚介、植松 孝夫、向井滋春、岡田勉、村上寛
1993

アルバム『EASE』リリース。日本ジャズ界のヘビー級バトルロイヤル・グループと賞され、スウイングジャーナル誌ゴー ルドディスク賞を受賞。11月2日宮古スターライトでカルテットライブ

1995 「本田竹広 JAZZ FUNK BAND」を結成。このバンド で本田は全編フェンダーローズを使用。日野元彦、ポール・ジ ャクソンとのトリオをベースに五十嵐一生、臼庭潤、今出宏をフィーチャーして、録音された『BOOGIE BOGA BOO』をリリース。
その後、脳内出血で倒れ闘病生活を余儀なくされるが、約2年のあいだ復帰を期してリハビリを続ける
1997 回復に向かっていたこの年の7月7日、2度目の脳内出血で倒れ る。しかし、半年後の12月には『本田竹広ベストアルバム』(フ ァンハウス)のリリースライブで奇跡の復帰をとげる。
1998 リハビリ中の本田を応援していた友人たちによって、3月3日「 保谷こもれびホール」にて復帰コンサートを行う。以後、ライブハウス出演やツアーにと演奏活動を展開する
1998 リハビリ中の本田を応援していた友人たちによって、3月3日「保谷こもれびホール」にて復帰コンサートを行う。以後、ライブ ハウス出演やツアーにと演奏活動を展開する
1999 『マイ・ファニー・バレンタイン』『イン・ナ・センチメンタル・ムード』ファンハウスからリリースされた『バック・オン・マ イ・フィンガーズ』『アーシアン・エア』『シー・オール・カインド』『EASE』『BOOGIE BOGA BOO』の計7タイトルが復刻発売される。

長年考えていたWorld Music Band 「The PU RE」を結成。
9月17日市内スターライトで本田竹広トリオライブ。
10月9日横浜ジャズプロムナードに初出演し好評を博す。以後毎年出演している。

この年本田は、「踊る楽器」と形容されるタップダンサー宇川彩子と共演する。翌年以降共演はライブハウスを中心に展開される
2000 ビレッジレコードより米木康志、本田珠也を迎えたトリオによるアルバム『ナウ・オン・ザ・ブルース』をリリース。
「国立音楽大学OBジャズミュージシャンズクラブ(K・O・J・M・C)」を自ら立ち上げ、母校出身のジャズミュージシャン の組織を結成、同年より毎年国立音大の芸術祭に出演
2001 3月2日、保谷こもれびホールのK・O・J・M・C・コンサートにて、念願の先輩山下洋輔とデュオ。ネイティブサンの復活を との声が挙がったが、川端民生のいないネイティブサンは考えられないと、「アフリンバ」というサンバのバンドを、峰厚介、福 村博、ダミオン等と結成。2月讀賣新聞夕刊に載る
2002 7月13日市内スターライトでリー・ミージャとライブ。

7月岩手日報、12月日刊ゲンダイ に掲載される。

11月故郷の岩手県宮古市で開催された「第1回宮古JAZZ祭」に日野皓正らと出演する
2003 3月20日、鎌倉円覚寺「白雲庵」で文楽の豊竹英大夫と「お彼岸ゑ」で夢の饗宴。月刊「清流」5月号「ヒューマンドキュメント 」に載る。

山下洋輔やケイコ・リーなど有名ミュージシャンが多数参加する。
5月25日市内スターライトでトリオジャズライブ
7月15日、TBSテレビ人間ドキュメント「DASH DASH」 に出演。
8月31日、岩手県田老町で本田竹広プロデュースによる「鮭の国ジャズフェス2003」を開催。
10月16日宮古高校80周年記念演奏会でソロコンサート。

12月16日宮古市民文化会館でソロライブ
2004 7月31日、紀尾井ホールリサイタルの成功を祈願して、本田竹広ファンクラブ(THFC)が発足、9月岩手教育会館大ホールにて、 ネイティブサン 「One Night Stand」が開催される。

11月24日テイチクから『ふるさと On My Mind』をリリース。

ライナーノーツには直木賞作家五木寛之氏が「一人のピアニストが後世に贈る貴重な音楽遺産である。命をよみがえらせる演奏。」 と大絶賛している。マスコミ各社(スィングジャーナル、ジャズライフ、朝日新聞、産経新聞、日刊ゲンダイ、週刊現代、サンデ ー毎日、週刊文春、ラジオ番組)に取り上げられる
2005 1月NHK総合テレビ「こんにちは いっと6けん」に出演。3月、5月と続けて骨折事故。

7月31日体調不良な中、紀尾井ホールで迫真のクラシック・リサイタルを敢行、好評を博す。

12月にアルバム化、遺作となる
2006 1月12日。急逝心不全で逝去

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