末広町の歴史
末広町のいまむかし
元和元年(1615)南部26世信直公が南部領東岸巡視の頃、宮古の集落は主として山口川北岸に栄え、山口川南岸地区は、僅かに向町、田町を数えるだけで、信直公の町割の記録によっても窺い知る事ができる。以後、300年間、大正時代に至るまで、宮古の町並は、山口川地岸に発達した。大正13年(1923)、当時の宮古の素封家、山田庄助氏、伊藤長五郎氏がその所有の水田を埋立て、田町の西方より旧宮古幼稚園(現宮古教会)裏手の線までと、南北は山口川南岸より八幡通りまでの宅地を造成して幾久屋町と命名。末広町は幾久屋町の造成に引き続き大正13年(1924)頃、地主太田氏、野崎氏、山本氏、幾久氏らが埋立てに着手し末広町北側より始めた。
昭和9年(1934)11月、山田線が開通した頃は、末広町の町並は揃ったようなものであったが、突発した日支事変に続く第二次世界大戦によって町の発展は一時遮断されたが、代わって末広町は戦地に赴く出征兵士たちの晴れの花道となった。そして終戦後は祖国再建に意気込む多くの復員兵たちの希望の道となった時代もあった。
戦後、いち早く商店街復興の先頭を切ったのは駅前の中屋商店であり、続いて引揚者連盟の経営する駅前マーケットであった。以後暫くして末広町中央部にべにや商店が大型店を開店、中屋商店と共に末広町商店街の核店舗の役割を果たした。このほか、戦前よりの小原氏、山清商店ほか十数店の事跡は、末広町商店街草創期の歴史に長く伝えられる。
末広町の町名はいつ誕生したか
大正末期に形が作られてきた末広町は、いわば民間サイドで出来た住民による住民のための町だった。
末広町という町名は詳細は不明だが、大正14年(1923)12月9日付岩手日報には次のような記事がある「宮古町では、幾久屋町から館合に至る道路が開通してから、利便を蒙る事多く、沿線には幾久屋町を起点として建築相並び市街を形成し、宮古はこの方面に発展するかにみえるが、此のほど市街の名を道路新設の功労者、古館熊之助氏の姓にちなみ、古館町と命名する議起るや、反対の声しきりにたかく、宮古の発展を意味する新しみ味のある名称の方がよいとの意向多く、よりより協議中である」。
末広町の古老たちはこの記事を裏付けるように「大正14、5年頃、地主たちが集まって町名を何とつけるか」との話があったことを証言している。 当時は行政区は町名で呼ばず、区制をとっている。『第二十一区新宅地内ニアル幾久屋町一円及館合ニ通ズル道路両側一円』という資料から見ると、幾久屋町の先にどんどん家並が建ち、行政上処置しなければならなくなって取られた変更を示している。ところがこれには幾久屋町とは出ているが、末広町の名前は出てこない。末尾の「館合ニ通ズル道路両側一円」とあるところが末広町に相当する部分である。従って大正15年5月までは末広町の町名はついていないことになる。
『日本地名大辞典』(昭和60刊・角川書店)には、「大正15年、一面の田圃、湿地を埋立て末広町として設定した」とある。こうしたことから末広町と名付けられたのは大正15年5月から11月までの間ということになる。いずれにしても大正15年には変わりなく、末広がりに栄えることを期しての命名だったのである。当時の本籍は宮古町宮古第5地割字八幡沖であった。