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昭和サイダー

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目次

今はなき宮古の地サイダー

長い間、宮古市民に愛されてきた地元製造のサイダー昭和サイダーは平成13年(2001)その歴史の幕を閉じた。かつてふるさとの夏は、ラムネサイダーの夏だった。誰もが一度は飲んだそのサイダーはシンプルで美味しく、いつでもどこでもその涼しさを手に入れることができた。しかし、いつしかサイダーは郷愁の彼方へと消え去った。

  • サイダーの思い出
サイダーの弾けて消える泡の中に少年時代の夏があった。
駄菓子屋の店先で友達とラッパ飲みしたあの胸の痛み。
海に行きそびれて一人過ごした退屈な夏休みの昼下がり。
耳を塞いで怖々着火した花火。
子供会、運動会、盆踊り……。
サイダーがいつも優しい甘さで佇んでいた。

宮古のサイダーの誕生。裏の井戸にヒント

市内愛宕の昭和サイダーの製造元小笠原商事は、明治44年(1911)に先代の小笠原勇平氏が金雄舎ラムネとして設立した。サイダーは大正5年(1916)に始め、昭和の年代とともに昭和サイダーと名づけた。
先代の小笠原勇平は気仙の出身で明治40年(1907)に宮古の小笠原家に入った。当時小笠原家は土地や山などを売り払った後で、勇平はそれをなんとか買い戻したいとの思いで、ラムネ製造を思い付いた。裏の井戸は冷たく良質だった。近所でも評判の井戸水だったのでこの水にヒントを得た。また丁度その頃、金線サイダーという飲み物がよく売れていたことに触発され、この良質の水をもって製造するならきっと最上のラムネが造れるだろうと、ラムネ製造を始めたのがきっかけだ。
ところが同じ頃、市内の吉田徳助氏がこのラムネ製造を始めることになり、以来38年間も販売競争をせざるを得なかった。時代は進み、昭和に入り国鉄山田線などの整備が動き出すと、それが開通すれば外からの資本が乗り込んで来るとの予想から昭和2年(1927)に株式会社を設立。それが小笠原商事の始まりとなった。
当時ビンが5銭5厘、ラムネの卸値が2銭、小売り3銭というラムネ、サイダーを荷車に積んで閉伊川筋を、あるいは津軽石方面へとどこまでも売れる所まで売りに行った。その後市内にもこのほか5社ほどのラムネ、サイダー製造会社も現れるなど競争は激しくなった。

ラムネからサイダー中心へ

戦前戦後と売れに売れたラムネ、サイダーだったが戦後の東京オリンピック(昭和39年)前後に、小笠原商事ではラムネの製造は中止した。これはビンの形状などから洗浄にも手間がかかるのためで、その後同社ではラムネを仕入れに切り換え、製造はサイダー中心に様々な清涼飲料水を手掛けてゆく。機械も一本詰の小規模なものからはじまり、オイルショック後には最新設備に変えながら業績を伸ばしてきた。
こうして小笠原商事で製造するのサイダーは市民の間に定着していった。ひと昔前なら夏のお中元に「昭和サイダー」というのも珍しくなく地元ならではの当たり前のことだった。ところが高度成長と共に清涼飲料も大手メーカーから様々な清涼飲料水が登場。缶製品登場など市民の嗜好も様変わりし、大手メーカーとの競争にも生産力の少ない地場のサイダー製造では対抗できず、平成13年3月末をもって小笠原商事は約90年にも及ぶ長い歴史を刻んだ昭和サイダー製造に幕をおろした。

小笠原家の井戸水

小笠原家の井戸は古くから「宮古で一番うまい水」と言われてきた。元来湧水だったところに発破をかけて、大きな水脈を掘り当てたもので。水質もかなり良質だったことから、当時、宮古市内で旅館や飲食店を商売する人々が県などの許可をもらうために、この井戸水をもらって自分のところの水として申請し合格したという逸話も残る。また、愛宕地区住民の飲料水であったり、漁船用に積み込まれたり、あるいは火災が起きたときの消火用水となったり、この水が多くの人々の生活を支え救ってきた。
井戸水は(天然水)は、カルシウム、マグネシウム、ナトリウムなどの含有量のバランスが非常に良く、口当たりも良い。また水道水より弱アルカリ性でもあり、身体にも良いのである。この小笠原の井戸はカルシウム分が豊富なことから、石灰岩質の中を通ってきた水であろうと言われている。井戸は今でも安定した水量で、水温も12度前後。しかし、今後この水でサイダーが作られることはない。

意外なラムネ、サイダーの歴史

サイダーを含む清涼飲料水の歴史は結構古い。元来西洋の大航海時代の末期、船に積む飲料水として開発され炭酸水として英国で開発されのちに果汁で味付けされたのがはじまりだ。日本に渡ったのは嘉永年間の1853年。この年はペリー浦賀に来航した年で、ペリー艦隊は飲料水としてラムネを積んでいたという。ペリーは幕府の役人を船に招待してラムネを飲ませたが役人たちははじめて飲む炭酸水に酔っぱらったという逸話も残っている。のちに万延元年(1860)に英国船によりラムネが長崎に伝来、長崎在住の外国人の手により輸入販売された。
当初ラムネは栓を抜くと「ポン」と音がしたため、その音にちなんで「ポン水」と呼ばれていたが江戸末期の慶応元年、長崎の商人が製造方法を学び「レモン水」として開発商品化して販売、レモン水がレモネードにナマり、それが短縮化されラムネという名称が生まれたらしい。
明治時代になると横浜に在住していた英国人の手によりラムネをはじめジンジャエールなどが製造販売される。この頃になるとラムネは主要都市各所で商品化されるが、が、まだ珍しい特別な飲み物とされていた。ラムネ独特の「ビー玉」が入ったボトルが日本に出現したのは明治22年で、ビンの見本は英国から輸入した。当時のラムネの標準小売価格は中身が5銭、ビンが2銭であった。その後ラムネは日本に出回り宮古にもお目見えしたのは明治末期頃である。

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