新町を語る
古老に聞くわがまち備忘録
古老が語る新町
昔と言っても昭和9年、宮古駅が開通するまでは何と言っても宮古町の経済の中心は本町、新町だった。その頃までの宮古町の戸数の6割はこの新町、本町にあったというから押して知るべしということになろう。 宮古の祭りはあんばさま八幡様が代表的な祭りだが、この祭りの山車ものは鍬ヶ崎芸妓の屋台踊りで各町内消防分団が競って豪華な屋台踊りを出したものだ。
祭りの踊りは向町から新町をのぼり本町を下る僅かふたつの町内で二日もかかった。新町の商店街では、年に二度のこの祭りに近郷近在からお得意様を招待し店や二階を開放して、お煮しめだ、餅だ、酒だと振る舞い、踊りに祝儀をはずんだ。祝儀の相場は芸者踊りには二円以上、大店や旅館などではお餞が追加されるので、踊り等はその店に釘付けされ、芸も半玉や芸者だけでなしに相撲なら三役格が下りてきて至芸を見せたものである。 そんな時代から上新町も相当移り変わりを見せている。昔ながらの家では、西側上から大槌屋、松喜商店、まつや呉服店、坂下先生、坂清商店、沢田屋旅館、東側上から山田唯志さん、新町郵便局、岩沢平三さん、鈴木さん、斉藤さん、坂忠商店、中沢書店、岩近さんなどで、近年新町にお店を構えたのは、西側では鳴海さん、トーヨータイヤ、佐香敬一さん、藤森電業、ナショナル製品販売など。東側ではテーラー松葉、岩間商店、アパート、久保商店、本田美容院、清水モータース、小松商店などだろう。
昔の新町の経済力は相当のものだった。中心は経済だけではなかった。スポーツ、文芸なども新町を中心に勃興したと言っても過言でない。野球などは明治末期から大正初期にかけての話になるが、新町下の熊安旅館の先代・安重郎氏は、宮古実業や球団創設時の顧問格で地方に野球ルールを普及した人である。新町下のはりまや商店の貞治郎さんは(日本郵船外国航路の事務長)米国ヤンキースのルールブックを熊安さんに送ってきたのでこれを翻訳し、このルールで宮古実業野球団(当時本町の幾久屋商店の若旦那孝吉氏が創始者)の選手たちが練習し大槌鯨南クラブと対抗試合をしたものである。
少年野球は、亀屋の忠右エ門、忠助の兄弟や、松井真一ら早稲田実業出身による早稲田びいきの亀屋を中心に、本町の菊清旅館の五郎、吉田正七らと共同で組織され、オリオン少年野球団が誕生した。少年野球は、横町がオロラ、向町が星M、光岸地が東門、愛宕、藤原などと優勝を争ったものである。
また、亀屋を中心に新町の子どもらが文芸誌をつくった。亀屋の田代忠助、忠右エ門、駒井正三(本誌みやこわが町創始者)らが中心でガリ版刷りで「未耕」という同人誌を発行した。後に駒井正三(雅三)、本町の菊清旅館の三和(三郎)とともに、文学結社未耕社を興し、文芸誌「骨」を発刊編集し、県下の文人がこれに寄った。昔の新町上は夢多い町だったと思う。
※注 この話は昭和50年前半、新町に在住していた古老の、昭和初期の備忘録である。