引揚者マーケット
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駅前交差点にマーケットが誕生
引揚者マーケットとは昭和22年から41年まで、宮古駅前からほど近い交差点の角(現リラパークこなり、中屋商店)にあった店鋪群であり、単に「マーケット」と呼ばれていた。
このマーケットは当初74店鋪からなり、同22年6月1日から開業した。経営母体は引揚者連盟宮古支部であり、敷地面積1090平方メートル、木造平家建8棟約660平方メートルの自由市場だった。
マーケットの一戸分は、建坪1坪5合で家賃は一ヶ月480円。当時としては日本一高い家賃、との声があった。家賃の内訳は480円を30日で割り、日歩12円とし、残り4円をマーケットの維持経費とした。マーケット内には、南北に3本、東西に2本の通路があった。その両側に店がずらりと並んでいた。当初は通路ごとに売る品目を決めていた。左の通路を青果、中央と右を小間物・雑貨と決め、場所は抽選で決めたという。北側には飲食店が並び、その隅には共同便所があった。当初は、引揚者だけで出店していたが、途中から一般商店も参加したことから、コマ割りのバランスが崩れ、後期には業種別の通路はバラバラになった。
マーケットの店舗紹介
マーケットにはどのような店舗があったのか。昭和26年の『宮古商工案内』によれば、マーケットと呼ばれた区画に49もの店舗があったと記録されている。しかし、これは同一経営者がひとつの店で異なる業種の品物を販売したり、1店舗が複数の店舗を借用していたためと思われ、実際には入れ替わりが激しく当時の店舗数や詳しい店舗のコマ割りは一致していない。では、マーケットにはどのような店舗があったであろうか。
写真店
出張撮影が多く留守がち。結婚式や村祭りの写真印画紙を井戸で洗う
マーケットには写真店が2軒あった。昭和23年に入った写真店は、マーケットが閉鎖されるまでいた。DPEを中心にしていたほか、会合や結婚式があると暗箱をかついで出張撮影にいった。もう1店鋪も引揚者ではないが10年近くいて、裁判の途中に出た。現像、プリントを中心に行っていた。北側通路の所に井戸があり、プリントの水洗いはそこで行っていた。当時の宮古では写真店はそれほどなかったという。
写真店の看板
パン屋
大きな煙突と映画の看板。塩釜石の自家製窯で毎日パンを焼く
昭和26年に福島出身者の菓子職人がマーケットに店を借りた。製造と卸しが中心の店で、駅の弘済会に卸していたほか、通路にショーケースを並べてそこでパンを売っていた。煙突が2本あり、塩釜市から塩釜石を購入してパンを焼く窯を作ったという。当時、近くにあった東映映画館のポスターがパン屋の外壁に貼っていた。
マーケット西側にはパン屋と映画ポスターの掲示板があった
雑貨屋
東京まで仕入れに行く。流行には敏感で他より安い
マーケットにあった雑貨屋では生活必需品から、文房具、化粧品など多彩な商品を扱っていた。ある店では、小間物と化粧品を扱った。仕入れは東京の横山町まで行ったという。町の商店よりも流行に敏感でしかも格安に売っていた。もともとはマーケットに入る前は片桁の露店で魚を売っていた。露店だと魚を売るだけでよかった。店を出して魚屋をやるには、三枚おろしなどが出来ないといけない。魚をさばけなかったのでマーケットでは魚屋をやらなかったという。
飲食店
中華そばから夜はホステス接待まで。多彩な形態の飲食業
マーケット内には最初、5軒の飲食店があった。中でも最初からある有名な飲食店は「白樺」と「安慶」であった。2軒とも競争しながら張り合っていたという。
白樺では、最初従業員は4人で、中華そばを食べさせていた。また肉も売っていた。3、4年してからホステスを5、6人雇い、宮古の店から仕入れた酒を出すようになった。日本酒、洋酒、ビールと何でもあり「よその店よりも安くしていた」という。朝は9時半から、夜は11時半頃まで店を開けた。
「宮古商工案内」(昭和26年版)によると、当時マーケットにあった店のうち、電話があったのは白樺だけであった。
他の飲食店を見ると、当初は酒類は出さずに、魚、肉類、乾物などを売っているうちに、食堂のようなスタイルになった店もあった。
飲食店が入った北側の棟は、マーケットの他の棟よりも奥行きがあった。そこにあった食堂では、入り口の方には小さな四角いテーブルを3つ、奥の方の2畳分くらいのスペースには丸テーブルを置いた。食堂営業の許可をとってからは店に中2階を付け、入り口横の出窓でおでんを売った。
このような店では、夏はかき氷、ラムネ、冬は温めた牛乳、おでんを売った。バスや汽車で宮古を訪れる人、当時近くにあった宮古病院(現宮古郵便局の場所)へ来る人たちによく利用された。
子どもたちの後ろにのちのキャバレー安慶の看板がある
時計屋
最初は修理専門だったが後期には新品を売った
昭和26年にマーケットに入った時計屋では、最初は修理専門店で営業していた。後に製品も販売するようになった。マーケットが混むのは盆や正月の前であった。客が大勢入り、時計屋にも客が並んで待っていた。まだ月賦販売もない時代、客もお金をためてこの時期に現金で買いに来た。
客にまつわるエピソードでは、近くに飲食店があった関係から、その飲食店で有り金すべて飲んでしまった人の中には困って、この時計屋から時計を借りていく人もいた。時計を買って金が無くなったことにして家に帰るためである。しかし、そのまま代金を払ってくれないことがよくあったという。
菓子店
売れる品はすぐに真似されるいたちごっこ
青果、果物、菓子類を売る店も多くあったが、その時によって売る物は変わっていったようである。マーケットでは、一軒でよく売れる品物があると、他の店がすぐ真似をしたとの話もある。菓子の仕入れは盛岡に行く人もいたり、自分の店でヒネリやオコシ、水飴など作って売る店もあった。
ある店では、マーケットに店を出しながらも、駅前などにも場所を借りて2ケ所で営業している店もあった。駅前では生菓子や高級品を売り、マーケットの方では売れ残っても痛まないものを売っていた。
貸自転車
車やバイクがない時代、貸自転車は大ヒット
途中から貸し自転車屋が入った。元々は床屋さんをやっていた人だった。当時はバスの便も少なく、問屋の人が配達に使ったり、あるいは遠くから宮古まで列車で来た人が、駅から近いここで自転車を借りて用事を済ませた。自転車を貸すだけで食べていけたという。
貸し自転車屋は西側に面した道路側にあったようだ
その他
雨後の竹の子、パチンコ屋からヤミ米販売まで
ある人は、最初は新聞販売店をしたが、その後手焼きせんべいを売ったり、小鳥の飾り玩具を売ったり英語塾もやった。最初は青果を扱っていたが、途中でパチンコ屋に変える店もあったというが、それは今でいうスマートボールができる店もあった。パチンコ店は駅前通り側にあった。
昭和22年の頃は、「マーケットに行けば何でもある」と言われた。しかし、統制があった時代でもあり、ヤミの品物を隠し隠しやっていた店もあった。ヤミ米を売る店もあったといい、五合でも一升でも売ってくれたという。
組合事務所
家賃集金から無尽の積立、抽選まで
マーケットの店が集まって「宮古マーケット商業協同組合」を作っていた。東側通路の奥のところに事務所があって、土間づくりとなっていた。電話もあり事務員がいた。マーケット商業協同組合として家賃の集金や、商売上の資金借り入れ業務などを行っていた。事務員は前期から中期までは2人体制でいたが、後期からは1人で延べ4人がいた。事務員は引揚者が帰ってくると駅まで迎えに行き、引揚者の世話もしていた。
後期に事務を行っていた人によれば、「その頃、マーケットで店をやっている人で引揚者は少なかった」と言う。
マーケットでの暮らし
水道がまだ整備されていなかった時代、マーケットの人々は汲み水でしのいでいた。また、店舗はそのまま店主家族の住居であったが、スペースは狭くほとんどの家族は店舗に中2階のような仕切りを設けてそこで寝泊まりしていた。後期にはマーケットから数百メートル離れた所に貸間があり、ほとんどの人たちがそこから店舗へ通っていた。
店舗兼住宅
店舗に住む者、通いの者。火事や泥棒は自警団だ対処
マーケットに店鋪を出している人のうち、外から通っている人はわずかで、最初は大部分の人が中で生活していた。住むと言ってもとっても狭く、店の隅で寝起きしたり、あるいは屋根裏で生活をしていた。天井に半間四方の穴をあけ、上がる時だけハシゴをかけた。とても2階と呼べるものでなく、屋根裏、あるいは棚みたいなもので、坐ると頭がつかえるくらいだった。
しかし、ここでお産をしたり、家族7人で暮らしている家族もあった。
マーケットの人たちは大変中が良くまとまりがあった。花見や旅行に行ったり、市民運動会にも参加したこともある。
夜警の当番もあり、毎晩2~3人で事務所に泊まり泥棒や火災などに対処していた。戦後間も無い頃だったので夜警も必要だったのである。
苦心の水調達
水はバケツで汲んでくる。たくましいまでの水確保
マーケットには最初、水道がなかった。井戸を掘ったが、飲める水ではなかった。飲料水の基準値を下回るため、井戸はもっぱら洗濯や生活水、写真店の水洗いとして使った。
飲料水は、マーケットの通りをはさんだ向側にあった県北バスの待合室や、駅のタンク、外のあちこちからバケツで汲んできた。
昭和27年に水道が出来たが、資金不足でなかなか引けない店が多かった。水道が出来てからも断水がよくあり、末広町の方に水をもらいに行ったという。
昭和24、25年頃、組合で下水道の設置工事を行った。下水道といっても、通路に、幅、深さとも20センチほどの溝を掘り、内側に木の板を張って、上にふたをしただけの簡単なものだった。
アイオン台風
台風直下でも営業、台風通過後も即、営業
マーケットの歴史の中で最大の事件がアイオン台風の水害である。昭和23年9月16日、台風の豪雨により閉伊川が氾濫し、宮古のまちは大水害に遭った。
マーケットにも濁流が押し寄せ、店の戸板がはずれ、鍋や茶碗がプカプカ浮き、商品が流されたり、売り物にならなくなった。
当時の災害の記録を見ると、例えば昭和22年6月1日から24年11月までマーケットで営業していた「おくむら運道具店」では、「グローブや、スパイク等皮製品は、泥と共にグチャグチャになった。金庫替わりにボール箱を使っていたが、水にふやけて広がった。つり銭の硬貨の上にのせておいたお札は、そのまま流れなかった。商品は大半流してしまった。10月7日、水害後の店開きをした」(「伸びゆく宮古」より)という。
しかし、マーケットでは水が引いたらすぐに店を開けたところが多かった。アイオン台風の直前まで店を開け、直後もすぐに店を開けたのはマーケットだけだったそうである。
開店してまず困ったのは、水がないことであった。井戸には汚水が入り、どこの井戸も使い物にならなかった。必要に迫ってマーケットでは、かつぎ棒を買って、遠く黒森のあたりまで水を汲みにいったという。
店舗はほぼ水没したが台風翌日から即営業開始した
そして衰退の時
約20年の営業に終止符。マーケット解体へ
マーケットは、住人にとっても、引揚げて入った当時はいい所だと思えたが、世の中が落着いてくると、外観からして「何が住んでいるのか」と思うようなところだったという。「バラックでブタ小屋みたなものだった」から、年数が経つにしたがって、客が入ってこなくなった。引っ越す人も増え、開いている場所を借りて住まいや倉庫にする人も出てきた。
昭和30年3月、地主からマーケットの土地・家屋明渡し請求があり、組合側が拒否し、裁判が始まった。この頃から、外に場所を見つけて一人二人と移っていった。残った人も「裁判で負けて、さあどいてくれと言われてどかれなかったら困る。マーケットにいられるうちはいて、そのうち場所を探さねばと、思っているうちに皆抜けていく。いく場所がなかったら、どうしようと心細かった。数えると何軒も残っていない。子どももいるし、生きた心地がしなかった」という。
マーケットの最後の頃の昭和40年には25店鋪、住人29人というさびしいマーケットになっていた。
裁判は一審(盛岡地裁、昭和33年1月13日)では組合側が勝訴し、むこう30年の賃貸権を得たものの、二審(仙台高裁、昭和39年5月25日)では一審判決が破棄され、組合側は立ち退き、借用料を払うよう通告された。そして最高裁の判決(昭和40年9月17日)は、二審判決を支持、組合側の上告を破棄した。
そして、昭和40年9月17日の判決が出た翌年41年を最後に19年間、宮古の生活と文化を売り続けた、宮古引揚者マーケットの灯は完全に消えて、その歴史に幕を閉じたのである。
マーケット後期の駅前交差点にて
マーケットを知る人々
マーケットが解体されテナントとして入っていた商店はマーケット近くの店舗を借りたり、末広町へ店を出したりした。また、目抜き通りではなく店主の実家へ移動して商売を再開する人もあった。現在、駅前や、あいさつ通り、花の木通り、末広町などにはマーケットから独立した店舗もある。解体後はしばらくさら地として放置され商工会の売り出しイベント「びっくり出庫市」なども催されたが、のちに地主が鉄筋コンクリート建てのビルを建て一階部分をテナントとして貸し出している。
マーケットがあった場所に建つ現在の店舗
開設当初から最後まで店を出していた乙戸商店 乙戸淳子さん(81)
乙戸さんはご主人の侃(ただし)さんが引揚者であり、マーケットには開設当初から最後まで入っていた。マーケットにも店を持ちながら、駅前にも店を出していた。青果をはじめ菓子類など販売していた。乙戸さんたちはマーケットは手狭なことから、住まいはマーケットの北側にあったアパート「美登治屋」(現モスバーガー付近)を借りてそこから店に通った。このアパートには、マーケット関係者がやはり何人か住んでいた。
後にご主人はマーケット商業協同組合の理事長に就任し、マーケットの最後までその役を務め解散における清算をきちんと果たした。
マーケットでの思い出はいろいろあるが、もう遠い昔の事で記憶も薄れてしまった言う。しかし、覚えているのは創立記念日などに行われたステージでの演芸会。今の岩手銀行のあたりを会場に行ったが、とても楽しいものだった。花見会も行い臼杵山や津軽石方面へにも出かけた、と言う。
現在は宮古駅前で、青果やギフト、菓子などの店「トムトム」を営んでいる。
宮古引揚者連盟の事務員としてマーケットで働いた 佐々木ミサさん(85)
佐々木さんはマーケットの事務員として昭和26年頃から4年あまり働いた。当時のマーケットの事務員は2人いたが一人が辞めることになり、郵便局での事務の経験のある佐々木さんがそこに勤めることになった。当初、事務所はマーケット内部ではなく、マーケットを挟んだ向いの現栄町通りにあったという。そこには引揚者連盟の看板が掲げられていたという。業務は日々の集金をはじめ無尽などもあった。引揚者の面倒を見るため駅に迎えに行くこともあった。偶然にも引揚者の同級生にばったり会い、無事の生還を喜びあったのが今でも記憶に残っているという。
マーケットの日常はとにかく賑やかだったことは、今でも忘れることはないという佐々木さんは、マーケットの事務を退職した後に、現花の木通りで手芸教室や毛糸店を開業した。