岩船雅一
- いわふねがいち【分類・音楽家】
- 明治~昭和:明治44年~昭和53年(1911~1978)
バイオリン教育の先覚者
岩船雅一(本名・正治(まさじ)は、郷土宮古が生んだ最初の音楽家である。幼少の頃から音楽への関心を高め、独学でバイオリン奏法を覚えるなどその才能を発揮。郷里宮古を離れた後、中央で活躍。日本弦楽指導者協会の初代会長に就任したほかバイオリン奏者、指導者として活躍した人物だ。
雅一は明治44(1911)年1月25日に旧磯鶏村の6人兄弟の二男として生まれた。音楽的感覚は幼少の頃から自然と養われていた。身近にある物品で音階を作って音楽に親しんでいたほか、学校にあった古いバイオリンを独学で覚えていたという。
昭和初期、高等小学校2年を終えると漁船機関士の見習いになった。音楽への情熱が高まったのはこの頃。当時の映画館「宮古館」ではバイオリンやチェロをもった楽団が映画の前奏、間奏、伴奏をやっていた。その宮古館通いの中で音楽への道を決め、1年で船を降りて宮古館に勤務。バイオリン奏者となった。ここでも奏法を独学した。
その後茨城の映画館で活動、横須賀海兵団に徴兵された後、帝国音楽学校に進み、バイオリン教育の日本の権威、鈴木鎮一、ロシア人のアレキサンダー・モレフスキーに学んだ。 以後、郷里で活動することはなかったが、昭和16年29歳の時、宮古市立磯鶏小学校の校歌を作曲。後に河南中学校、千徳小学校も作曲した。
戦後は鈴木カルテットのバイオリン奏者を経て、岩船バイオリン研究所を主宰。バイオリン教育に専心するかたわら東京弦楽団を結成。昭和36(1961)年には日本弦楽指導者協会を創設、初代会長となり17年間、弦楽の演奏、指導研究、普及活動な多くの事業を展開。多くの門下生も育てた。アメリカ、ヨーロッパとの交流も図り、NHK教育テレビでも演奏活動を行った。日ソ協会音楽委員、日本音楽舞踊会副委員長など歴任。著書に「サード・ポジション」「ポピュラートリオ名曲集」「ポピュラー弦楽四重奏アルバム」「岩船バイオリン二
昭和53(1978)年6月9日、東京の病院で肝硬変のため67歳で亡くなった。