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岩手県北バス

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目次

岩手県北自動車の誕生は戦時統制下

宮古下閉伊、および県北地域で地域住民の足となっている県北バス。その誕生は昭和18年(1943)である。国の統合計画に基づき、昭和17年(19432)11月、県教育会館で県下旅客自動車運輸業者約40名の出席のもと、統合に関する懇談打ち合わせ会が開催された。統合の実施要綱は「県下の交通圏を宮古・久慈地方、盛岡地方、一関地方、釜石地方の4地区に分け、各交通圏ごとに事業の統合を図る」というものだった。それを受け、県北地区ではバス会社8社 が「岩手県北自動車株式会社」の設立を進めた。18年3月、発起人会が開催され、統合のため申請したのは次の8社だった。 岩泉自動車運輸(八重樫 金十郎)、三社自動車(宮古・藤島弥助)、九戸自動車合資(久慈・小田賢太郎)、一戸乗合・三益合資(中村宏)、軽米自動車合資(工藤寿)、伊保内(坂本永八)、田老合同海陸運輸(龍ヶ鼻喜代松)、沼区内(伊藤冨之助)同年10月1日、盛岡市で創立発起人会が開かれ、取締役社長に八重樫金十郎氏が就任。こうして10月13日、岩手県北部2市6ヶ村の自動車運送業者の一般乗合部門を統合しれ「岩手県北自動車株式会社」が誕生した。
 統合前の会社規模では、路線バスでは宮古の三社自動車が大きかったが、全体的な経営規模は路線キロ、収入とも岩泉自動車運輸が最も多かった。このことから本社を岩泉に置いた。岩泉は県北地方のほぼ中央に位置している。統合8社の本社としても最適の地にあった。発足時の経営規模は次の通りであった。
路線キロ 438・8キロ 車両  23両 従業員  67名

乗合自動車創生期

盛岡~宮古間を結ぶ交通は藩政時代の徒歩や早馬にはじまり、明治期には乗合馬車があった。馬車は茂市、川井、川内、平津戸、門馬、梁川などの駅で馬を取り替えながら乗客を運んだ。当時の閉伊街道は険しい渓谷を縫って走る危険な道であり馬車でさえも多くの転落事故が起きていた。それでも沿岸住民にとって県都・盛岡への道は重要な路線で客足は多かった。そんな時代を経て大正期の自動車普及は閉伊街道の交通手段にとって大きな変化となった。馬車に代わる乗合自動車運行は本来なら国の許認可事業ではあったが、自動車が一台あれば誰もが手軽に出来る商売でもあった。そのため俗に言う白タク(無許可営業)的商売が横行し、客の取り合いから運賃が下がり同時に安全性が低下した。
 その後、乗合自動車業を営む会社の多くは統合され、人や貨物、郵便などを運び後には地域の公共交通として根付いてゆくことになる。

ボンネットバスからブルーリボンバスへ

トラックの荷台部分を客室とし、運転席と同一空間とし座席を配した形が最も古典的な形状のバスを俗にボンネットバスと呼ぶ。この形のバスにおける最大の特徴はエンジンが前輪上部にあり冷却面、騒音面に利点がある。また、運転手は直感的な運転が可能で狭い道や山間部での取り回しに優れている。しかし、エンジン部分の比率が大きく座席が少ないことが欠点だ。これに対しキャブオーバー型はリアエンジンの箱形で座席を多く取れる利点があった。岩手県北バスでは昭和28年からボンネットバスに代わる箱形バスとして日野自動車のブルーリボンと呼ばれる箱形バスを導入した。これにより約30人だったバスの定員は50名になり二倍近い輸送が可能となった。
岩手県北バスにおいて最初にブルーリボンが走った路線は当時全盛だった松尾鉱山と盛岡を結んだ区間で、週末には鉱山の人たちが盛岡へ遊びや買い物に出る足として使われた。その後ブルーリボンに代表される箱形バスは順次導入され、ボンネットバスは街の復興と高度成長の波に押されながら姿を消していった。
現在、夏の観光シーズンになると浄土ヶ浜の園内循環バスとして使われているいすず社製のボンネットバスは、昭和43年製のTSG40改という四輪駆動のバスで冬期間に松川温泉や八幡平を走っていた特殊なバスだ。独特なレトロな姿をしており観光の話題づくりに一役かっている。

宮古市営バスと観光船を県北バスが引き継ぐ

昭和31年(1956)から赤字財政がつづいていた宮古市は財産処分を余儀なくされ、この年の12月28日の市議会で、観光バス2両と観光船「はまぎく丸」(23・56トン 定員76名)を県北バスに譲渡することを決定した。当時の菊池良三市長と八重樫社長との間で、バス、観光船の譲渡契約書の調印が行われ、31日に引き継いだ。
これを受けて同社の観光船事業は昭和35年11月から宮古湾内一周航路が本格的にスタートした。それまで同航路には民間、市営あわせて数社数隻が航行していたが、それらもすべて統合され現在の形となっている。

106急行バスへの道

昭和和53年11月1日、盛岡~宮古を結ぶ交通機関として定着した『106急行バス』の運行がスターした。この時代国鉄山田線は盛岡~宮古 間を2時間30分で結んでいたが、106急行バスはこれを20分短縮した2時間10分で結んだ。当初のダイヤは一日6往復だった。この年、昭和 41年から続いていた国道106号線改良工事も終わり快適な難所で有名な閉伊街道は快適な道に生まれ変わっていた。また、大宮~盛岡間の東北新幹 線開通を四年後にひかえ、高速交通の需要は大きく高まっていた。そして昭和57年、東北新幹線は大宮~盛岡間で開通、この年に106急行バスは盛岡駅前ターミナルへ乗り入れ利便性がアップし現在に至る。
 

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