山本徳太郎
漁村の貧困脱却と民主化に取り組んだ
旧田老町において、若くして漁業組合改革運動に積極的に取り組み、水産振興と漁業者の福祉の増進等に尽力したのが山本徳太郎だ。
山本は明治32年(1899)2月10日、旧田老町の重津部に生まれた。小さい頃から一人前の働き手として海草の焼子、炭焼きなどを行い、独学で学問を学びながら14歳で漁業者として独立。
昭和5年(1930)、田老浜漁業組合副組合長に就任。しかし、当時の漁村は貧困にあえぐ時代。貧困から脱却するには協同運動によって民主化を図らなければならないと、積極的な改革運動に取り組んだ。折りからの大不漁、大凶作、金融恐慌、満州事変勃発によるアワビ生産停止、更には昭和8年(1933)の三陸大津波と、漁業者の困窮は極限に達していた。そんな中で協同組織の強化が緊急の課題と確信して、津波からの復興を旗印に、当時の田老浜、摂待浜、乙部浜漁業組合の合併運動を行い、多くの反対を押し切って合併を成功させた。
戦後の昭和24年(1949)法律の改正で組合は改組され、この時、田老町漁業協同組合組合長に就任した。以後、下閉伊北部地域をはじめ県下漁業者の向上に尽力。現在の漁協経営基盤の確立なども図ってきた。一方では昭和12年(1937)から18年間、町議会議員を務めたほか、昭和30年(1955)から16年間、県議会議員となり、数多くの要職を歴任してきた。
県下で立ち後れていた下閉伊北部地域の振興に寄与するため、田老町、小本浜、田野畑村、普代村漁協で構成する下閉伊北部漁協協議会を設立。昭和30年代には、北部地域での映画巡回も行い、その映画は「山本興業部」として親しまれ、楽しみと文化を提供してきた。
山本の信条、理念は何時でも何事にもおいても、貧困からの脱却と民主化に立脚したものだった。その信条表現の一つに「塩を舐めじり、舐めじり、褌を締め直して」という言葉があった。 昭和40年(1965)10月、藍綬褒賞受章、昭和45年(1970)4月、勲四等瑞宝章受章。 平成5年(1993)2月13日、94歳で亡くなり、従五位に叙せられた。