Miyape ban 01.jpg

小国新田金山

提供:ミヤペディア
2014年10月22日 (水) 17:00時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内, 検索

目次

長者屋敷伝説と終戦まで稼働した小国新田金山

江戸時代、南部藩により金山として大規模な採掘が行われた大槌町金沢から北西に向かって土坂峠を越えて反対側にあるのが小国だ。土坂峠は金鉱床が眠るという長者森(1010・5m)の北側の尾根にありこの山を中心にして四方に流れる各沢では古くから揺り板やムシロ、松ヤニなどを使った古典的な砂金採りが行われてきた。これらの仕事に従事していたのは山を生活の場として里との交流を絶った鉱山師、木地師、鋳師(いもじ)、マタギなどの人々で、彼らは独自のネットワークで連携しあい通常知られる日本史とはまったく違う別の日本史の中で生きてきたと考えられる。

小国金山とマヨヒガ伝説

小国金山と呼ばれる鉱山は長者森の北西側に拓けた新田(しんでん)地区にあった鉱山を指す。この鉱山は遠野の山師・小松某という人物が享保2年(1717)に新田金山、土坂峠付近の鉱床を含めて道又御山として発見したと伝えられ、当時は淘汰法という鉱床を人力で粉砕して水で漉く方法で産金したという。これらの仕事を人知れず遂行するため深山の奥深くに住居が構えられ、ここで里では口に出来ない白米や酒などが消費されており、そのような家が長者屋敷伝説を生み『遠野物語』の「マヨヒガ(迷い家)」などのモチーフとして語られてきた。事実、長者森は南東にある白見山(1172・6m)と連なり、数々の怪異現象、長者屋敷伝説、遠野物語の舞台となっている。
新田鉱山は明治初期になると道又地区に水力によって採掘した鉱石を砕く搗所(つきしょ)を設け、鉱夫数十人で稼働しており、この付近にも長者屋敷の伝説が残り古銭などが出土することもあったという。その後大正になり調査が進み昭和7年(1932)に長者森南西の黄金沢に鉱床を発見し採掘が行われたが資金不足により開発は中止となった。採掘が開始されたのは戦時色が漂う昭和15年(1940)、8本の坑道が掘られ、鐘ヶ淵実業株式会社(カネボウの前身会社と思われる)の所有となり終戦と同時に休山となったまま現在に至る。
新田鉱山の地質は古生代の粘板岩で一定方向に割れ削げやすい岩盤と白色の石英斑岩から形成され、産金の要素が漂っている。この鉱山の調査結果は原鉱、清鉱にニッケル・0.3~7.8%、金は1トンあたりに10グラム前後~40グラム前後でこの他に亜鉛、銅も発見されている。

関連事項

地図

https://goo.gl/maps/1iQVQ

表示
個人用ツール