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寄生木記念館

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(寄生木記念館と小笠原善平)
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*「学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず」
 
*「学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず」
  
*【メモ】常時開館 7~8月、午前9時~午後4時。月、火、祝日の翌日休館。9月~6月は随時開館要予約。入館料あり。問合せは宮古市教育委員会まで。
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== '''小説『寄生木』とその周辺''' ==
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 明治の文豪・徳富蘆花(本名・健次郎1868~1927)が書いた小説「寄生木」は、当時大ベストセラーとなった作品である。しかし、これは宮古市山口(旧山口村)生まれの青年将校、小笠原善平の日記をもとに書かれた小説である。この小説の冒頭で、蘆花は「正直に言えば、寄生木の著者は自分では無い。真の著者は、明治41年(1908)の9月に死んだ。陸中の人で、篠原良平と言う」と書いている。この人物こそが明治14年(1881)6月5日に山口村に生まれた篠原良平こと小笠原善平だ。善平は自己のたどった数奇な運命を克明に手帳に書きつづり、その当時もっとも人気のあった小説家蘆花を訪ねて、小説化してくれるよう頼んだ。蘆花は加筆を極力ひかえ、原文をできるだけ尊重し一冊の本にまとめあげ「寄生木」が世にでたのである。
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== '''山口公民館で常設展示''' ==
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 寄生木や小笠原善平に関する資料はこれまでは、山口の慈眼寺前に「寄生木記念館」(解体予定)に展示、公開されていたが、現在は、山口公民館内の「寄生木展示室」に移され一般公開されている。
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 善平の遺品、写真、書簡類など143品目、397点が収められている。彼の生い立ち、死に至るまでの資料が豊富に保管されている。
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== '''善平と蘆花。あまりも短かった善平の生涯''' ==
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 盧花と善平の出会いは明治36年(1903)4月であった。善平が「恩人のために是非、本を著作していただきたい」と盧花宅を訪れたことに始まる。序文では「恩人とは誰か」と問えば「乃木閣下であります」とそのやりとが記されている。以後、盧花との交流を持ち、「寄生木」と題名を定めて善平は書きはじめたのである。
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 明治41年5月、善平は病気になって郷里へ帰って静養していたが、心身の疲労から9月20日昼過ぎ、家人を遠ざけ恋人夏子への巻紙の遺書を残し、ピストルで自らの命を絶った。駆け寄った姉のお新に「姉さん、巻紙は大丈夫だね、巻紙は…」これが最後の言葉であった。善平28歳の時であった。
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 小説は善平の死後、明治42年(1909)12月8日に出版されたが、盧花は出版の前の2月、善平の墓参のため山口を訪れ、その際に山口街道の描写を次ぎのように書いている。 <br>
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 『寄生木』上編に善平の父が 村長として猛威をふるった 旧役場の名残りである。
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==

2013年2月20日 (水) 10:47時点における版

目次

寄生木記念館と小笠原善平

明治の文豪・徳富蘆花の小説「寄生木」は、宮古市山口(旧山口村)生まれの青年将校、小笠原善平の日記をもとに書かれた小説である。この小説の冒頭で、蘆花は「正直に言えば、寄生木の著者は自分では無い。真の著者は、明治41年(1908)の9月に死んだ。陸中の人で、篠原良平と言う」と書いている。明治14年(1881)6月5日に山口村に生まれた篠原良平こと小笠原善平は「自分がこの世に生きた記録を後世に残さなければ死んでも死にきれない。大木将軍のこと、生家のこと、夏子のこと」など、自己のたどった数奇な運命を克明に手帳に書きつづり、その当時もっとも人気のあった小説家蘆花を訪ねて、小説化してくれるよう頼んだ。蘆花は加筆を極力ひかえ、原文をできるだけ尊重して1冊の本にまとめあげ「寄生木」が世にでたのである。寄生木記念館は、これを後世に伝えよう市民の関係者らが、寄生木保存会を結成し、明治100年記念事業として昭和44年(1969)に善平の菩提寺である山口の慈眼寺の前に建立した。記念館には善平の遺品、写真、書簡類など143品目、397点が集められ、善平の生い立ち、死に至るまでの資料が豊富に保管されている。中でも恋人夏子に書き送った書簡は若い人の心を熱く揺さぶるものがある。明治41年5月、善平は病気になって郷里へ帰って静養していたが、心身の疲労から9月20日昼過ぎ、家人を遠ざけ夏子への巻紙の遺書を残し、ピストルで自らの命を絶った。駆け寄った姉お新に「姉さん、巻紙は大丈夫だね、巻紙は」これが最後の言葉であった。善平28歳の時であった。寄生木記念館の建物は、旧盛岡中学校の図書庫から盛岡赤十字病院書庫として使われたものを譲り受けた。白いモルタル塗りは、ずっしりとした土蔵の感じで明治の雰囲気を今もなお漂わす。歌人・石川啄木が次のように歌っている。

  • 「学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず」

小説『寄生木』とその周辺

 明治の文豪・徳富蘆花(本名・健次郎1868~1927)が書いた小説「寄生木」は、当時大ベストセラーとなった作品である。しかし、これは宮古市山口(旧山口村)生まれの青年将校、小笠原善平の日記をもとに書かれた小説である。この小説の冒頭で、蘆花は「正直に言えば、寄生木の著者は自分では無い。真の著者は、明治41年(1908)の9月に死んだ。陸中の人で、篠原良平と言う」と書いている。この人物こそが明治14年(1881)6月5日に山口村に生まれた篠原良平こと小笠原善平だ。善平は自己のたどった数奇な運命を克明に手帳に書きつづり、その当時もっとも人気のあった小説家蘆花を訪ねて、小説化してくれるよう頼んだ。蘆花は加筆を極力ひかえ、原文をできるだけ尊重し一冊の本にまとめあげ「寄生木」が世にでたのである。

山口公民館で常設展示

 寄生木や小笠原善平に関する資料はこれまでは、山口の慈眼寺前に「寄生木記念館」(解体予定)に展示、公開されていたが、現在は、山口公民館内の「寄生木展示室」に移され一般公開されている。  善平の遺品、写真、書簡類など143品目、397点が収められている。彼の生い立ち、死に至るまでの資料が豊富に保管されている。

善平と蘆花。あまりも短かった善平の生涯

 盧花と善平の出会いは明治36年(1903)4月であった。善平が「恩人のために是非、本を著作していただきたい」と盧花宅を訪れたことに始まる。序文では「恩人とは誰か」と問えば「乃木閣下であります」とそのやりとが記されている。以後、盧花との交流を持ち、「寄生木」と題名を定めて善平は書きはじめたのである。  明治41年5月、善平は病気になって郷里へ帰って静養していたが、心身の疲労から9月20日昼過ぎ、家人を遠ざけ恋人夏子への巻紙の遺書を残し、ピストルで自らの命を絶った。駆け寄った姉のお新に「姉さん、巻紙は大丈夫だね、巻紙は…」これが最後の言葉であった。善平28歳の時であった。  小説は善平の死後、明治42年(1909)12月8日に出版されたが、盧花は出版の前の2月、善平の墓参のため山口を訪れ、その際に山口街道の描写を次ぎのように書いている。 
 
 宮古の町はずれから、 
 盛岡街道を北に折れた。 
 雪の田圃にそい、氷の間を 
 さざめく小川に沿って、 
 山口村に入る。 
 底が凍った雪道、 
 ややもすればつるりと滑る。 
 小橋を渡って、山口小川に 
 沿って、少し北に上がると、 右側に硝子戸の小さな 
 茅葺きがある。 
 
 『寄生木』上編に善平の父が 村長として猛威をふるった 旧役場の名残りである。

外部リンク

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